免許更新に行って考えた

 教員免許更新制の法改正が進まないので、免許更新の講習に行くことになった。昨年、参加された先生方から、「自分の専門教科に関する講座より、誰でもオッケーみたいな講座の方がおもしろいよ」と、聞かされていたので、「映像のリテラシー」という講座と、「視聴覚教材としてのテレビゲームの可能性」の2つをそれぞれ6時間づつ受けることにした。
 
 日頃とは立場が逆になり、授業を受け、評価される側となった。免許更新制度の意味云々はさておき、いろいろと考えさせられる経験だった。
 
 まず、「映像の〜」は、映画というメディアに、音声が初めて登場した時、どのようにその音声を使って表現ができるのかを、ヒッチコックの初トーキー映画を見ながら知るという講座だった。DVDを20分くらい見て、何が見え、何が聞こえたかをA4の白いコピー用紙に手書きでとにかく書いていく。その後、再度同じ画面が提示されながら講師の解説が入る。すると、自分のそれまでの「見方」「聞き方」が少しずつ変わってくる。「即席パラダイムシフト体験」的で、結構楽しめた。(大変だったけど。)評価はその紙に何を書いたかによる(らしい)。
 
 「テレビゲーム」の方は、つい先日あったのだが、大学のコンピュータ室で行われた。まず、出席の登録からコンピュータを使う。板書もスクリーンに提示された「メモ帳」の画面。レポートはパワーポイント(以下パワポ)を使って自分が授業で使ってみたいテレビゲーム(教育的効果を期待するゲームを最近では「シリアスゲーム」というそうだが)の企画書をプレゼンする、というもの。え〜、黙って講義を聞くだけじゃないのかよ。え、事前にシラバスが公開されていたのかよ、パワポ使うんなら、家で復習してきたのにさ、日頃全然使わないからすっかり忘れちゃってるし・・・とか慌てふためいていると、出席の登録の段階で小学校、中学校、高校、特別支援学校、現在無所属・・・と多彩な顔ぶれだとわかる。

 まず、おもしろかったのは、同じ教員とはいえ、参加者のコンピュータリテラシーの質が違うこと。見ていると、高校の教員は全般的に私と似たスキルの持ち主がほとんど。パスワードを介したネットワークやウェブサイトには慣れているが、パワポにはあまり詳しくない。(ああ、よかった)それに対して、ネットワークに入るのにはおろおろしておられる小学校の先生が、パワポでゲームの出だしのところを器用に作られている。まあ、日頃、どういう風にコンピュータを使っているか学校が違うとこうも違うんだなあ、と実感する。
 
 さて、午前中の講義が終わり、午後から「講義の内容を踏まえてテレビゲームの有用性を理解した上で」「シリアスゲーム」の企画書の作成を始めることとなった。企画書を作るに際して、講師からは、「パワポにはテンプレートがあるからそれを使え」「つたなくてもよいから画面を図示しろ」「分量にしてA43枚程度でいい」という指示が出ていた。ホントはパワポで箇条書きを1つずつ示す機能とかを使いたかったが、どうしてもその機能の操作が思い出せない。テンプレートと、簡単な作画機能で「つたない画面の図示」もなんとかなった。まあ、よしとしよう!
 
 私が企画する「シリアスゲーム」は、英語でコミュニケーションの練習をするもの。まあ、こんなの昔っからフツーにコンピューターゲームであるよな、とか思いつつ、でも将来的にはこんなゲームが可能ならいいのにという願いを込めて、企画を作る。視覚障害や聴覚障害の人も練習できるように音声とテロップを選べるとか、アメリカ、イギリス、インド、オーストラリアなど自分が英語を使用する国が選べるとか、ポイントが貯まると「リアルコミュニケーションモード」に入れて、オンラインで、実際にある場面での会話(たとえばレストランでステーキを注文とか)ができるとか・・・。オンラインでリアルコミュニケーションというのは、ゲームとすれば一番非現実的だ。でも、特に聴覚障害を持っている生徒の将来的な英語の使用場面を考えると、海外旅行で現地の人とコミュニケーションするというよりも、インターネットで文字言語として英語を使う方が大いにありうる。オンラインゲームとか、ネットショッピングとか、メールとか・・・。将来的には、授業でパソコンとスクリーンを使って、教員と生徒の間で英語でメール交換とか、ウエブの記事にコメントとか、擬似海外通販とかやってみたい。こんなゲーム、実現するか否かは別にして「企画」だろっ!という態度でプレゼンも押し通すことにする。まあ、そのうちにコンピュータの基本性能が向上すれば、今不可能なことでも、いろんなことがフツーに可能になる日がくるだろうし。
 
 作成の時間が終わり、1人3分の持ち時間でプレゼンが始まる。
 
 で、ここからが、また、新たな発見の連続である。
 
 1つめ。「シリアスゲーム制作の企画書」という課題だったのだが、そうでないプレゼンが混ざっている。たとえば、既存のゲームの授業内での活用の事例とか、実践報告だとか。??自分でゲームを発想するんじゃないのか??2つめ。「3分の持ち時間」をあまり意識してないんじゃないの??というプレゼンあり。いっぱい話したいことはあるんだろうけど、「ゲームの企画」の説明に徹して欲しい・・・。3つめ。「質疑・応答」・・・これは、大学の先生から、発表順が次の人間がするように、との指示があり、私などは自分の直前の発表者のプレゼンは、ものすごく一生懸命聞いて、「質問」をひねり出した。しかし、20人近くの発表者の半分が終わったあたりから単なる「感想」をいう時間に変わってしまった・・・。

 で、これを担当の講師が「評価」しなければならないのだが、はっきり言って「大変な仕事」だぁ。 教員というもの、「評価」は常にしているし、その手段の1つとして、テストなんか日常的に実施しているが、そのとき、生徒に「問題文をよく読んで、求められている解答を作れ」と指示するのは基本中のキホンである。求められている解答からずれているものは、評価の対象にすらならん、と日々生徒には言い聞かせている立場から行くと、「自分が発想したゲームの企画書」じゃないものは、評価の対象外?それから、時間オーバーの場合も、面接試験なんかじゃ減点の対象じゃん・・・と思ってみたり。それから、「質疑・応答」だが、「質疑・応答」をすることによって、考えが深まったり、問題点が明らかになったりするので、発表者にとっては、質問を受けることのほうが、結果的にはプラスになることが多い。確かに「質問」をすると、批判的だったり攻撃的なニュアンスになったりするが、ホンキで検討している場合は仕方ない。ただ「感想」を言うんじゃ、そっから後の進歩はない。

 講座を受け持たれた大学の先生は、この講座の受講者に対してきっとこういうイメージがあったに違いない。@ゲームに関心があるのだからキホン的なコンピュータリテラシーはあるだろう。A自分の受け持っている大学生だって普通に発想力はある。学校現場の先生もそのくらいできるだろう。・・・なあんて。まあ、@はいいとして、Aのほうは、きっと裏切られたよねえ。免許更新講習では、「落とさない」のが原則らしいので、「落とさない」課題が設定され、また少々ズレた課題でもきっと単位は認定されると思うけど、「指導」と「評価」については考えさせられる。もしも、この講座が3ヶ月とか、ある程度の期間にわたって行われていたら、課題から大きくズレたプレゼンは、きっと認められないだろう。免許更新講習の講座自体、とってつけたみたいなもんで、あんまり意味ないし〜と言ってしまえば元も子もないが、「学校の教員を対象に」しているだけに「なんだかなあ」、という感想は否めない。
 
 最後にお互いの企画の人気投票となったが、純粋に「ゲーム」として楽しめそうな企画に票が集まった。このような場合、自分が理解し、想像しやすい内容というのは重要なポイントかもしれない。まあ、得票が集まった、ということと大学の先生の評価は必ずしも一致するわけではないらしいが。この場合の「相互評価」の一番大きな目的は「お互いのプレゼンをしっかり目を開けて見ろ」ってところだろう。(そうでなかったら、きっと私は気絶していた)
 
 家に帰って、ツレアイにパワポでのプレゼンについて話したら、「最近は企業なんかでもパワポ禁止ってところは多いぜ」などと言う。なんでも余計なアニメーション機能なんかで、かえって内容がわかりにくいことも多いからとのこと。そういえば、高校の授業ででパワポをほとんど使わないのは、結局生徒が表面的な効果の方にばっかり目を奪われて、内容をつかめないことが多いのが主な理由だ。

 逆に、小学校や中学校ではパワポでの教材提示や、パワポやコンピュータで作った教材をやるのが主流なのか??「ピタゴラスイッチ」をコンピュータ上で作れるサイトの紹介も、講義の中であったが、コンピュータの画面では簡単でも、実際に「ピタゴラスイッチ」で成功するのは10回に1回くらいだってことを子供に体験させて欲しい。
 
 昔、コンピュータを使った英語の授業の教案を作ったときに、「コンピュータの使用はキホン的には個々人の学習のためであり、一斉授業むきではない」と、いうコメントをいただいたことがある。確かに、何かのシュミレーション練習、トレーニングという側面ではそうである。それと同時に、「モンハン」に代表される、オンラインでプレイヤーがゆるく結びついたゲームに人気があることを考えると、やはり、これからのコンピュータは、「個人で完結」というよりも、最終的には「コミュニケーション」につながるツールとなるだろう。小学生がDSを持ちたがる理由も、自分で楽しみたいという理由と、同時に、「友達が持っているから」「友達と一緒にやりたいから」「持っていないと友達と話が合わないから」という理由が並ぶ。子供にとっては、かつての「メンコ」とか「おはじき」と、DSは同じ感覚なのかもしれない。それから、「障害などの不虞を補う」ツールとしての側面も忘れてはならない。前述したが、聴覚障害のある人と世界を結ぶ手段として、現在最も頻度が高いなのは、「文字言語としての英語」と「コンピュータ」なのではないだろうか。聴覚障害者に対する外国語教育の困難さにくじけそうな毎日(実はくじけています)だが、とりあえず、「コンピュータ」と「英語」で世界とコミュニケーションできる力を身につけた生徒を育てることを目標にしたいなあ・・・。

(2010年 8月)