新任の頃のこと

 自分が新任の教諭として英語を教え始めた頃のことを考えると、顔から火が出そうである。今でもたいした授業はしていないが、そのころの私は、ただただ若くて元気だけが取り柄、という授業をしていたと思う。

 私が最初に赴任したところは、山口県の東、瀬戸内海の島にある農業高校の分校だった。採用が決まって、赴任高の事務長から直接自宅に電話がかかってきたのだが、その時、「農業高校」「分校」と聞いただけで、めまいがしてきた。電話口の事務長の話を聞きながら「そこはどこ???」「その学校って何???」と、心の中で叫んでいたのを思い出す。

 分校では英語の教員は1人だけ。初任者研修が導入されている現在ではとても考えられないことだが、右も左もわからない状態でのスタートはとても不安なものだった。

 前任の方にいろいろと訊くだけ訊いて、いざ、教えたのはやっぱり文法と和訳中心の授業。いいわけになるが、私が高校時代に受けた英語の授業がこうだったのだ。それにはっきりいって、若い頃の私は、文法は比較的好きだった。(今はできれば避けて通りたいが。)わかれば面白いのに、と言う気持ちも確かにあった。が、端的に言えば、他の授業形態を知らなかったのだ。

 最初の1学期がなんとか終わり、夏休み前に、職員で飲んでいたときのこと。農業科の年輩の先生が私におっしゃった。「文法ばっかりじゃなくって、生徒達がもっと楽しめる、役に立つ授業をしたらどうかね。」そのとき、私は自分で口ではどんな返事をしたかよく覚えていない。ただ、心の中では、「なるほどその通りだけど、そう言われても、どうやったらいいかわからんのじゃあ」と、思っていた。

 その翌年の夏休みに1ヶ月、オレゴン州立大学の夏期講座を受けたのが、大きな転機となった。そこで行われたのは、コミュニケーション中心の活動で、インタビューやディスカッション、グループ発表のみならず、チャンツを活用した読みの指導や、ビデオなどの視聴覚機器を使った指導法など多岐に渡り、本当に面白かった。特に、私は英語力ではなく、発表の時に用いた独創的(?)なイラストや話題の切り口のおもしろさが評価されたように思う。もともと英語には自信がなかった。結局、その英語力をカバーするためには何をしたらいいのか。自分の方向性が見え始めた。

 時折、研修会等で、新任の先生がいろいろと苦労している話しを伺うことがある。「文法」「和訳」を中心にしておられる方がほとんどで、「そうじゃないんだよ」と、言ってあげたいことも多々ある。しかし結局、この元凶は高校時代に彼ら(彼女ら)が受けた授業がそうだったからなんだよね、と感じる。確かに、文法指導は大事だ。和訳をすることによって、理解を確認したり、自分の言語感覚を磨くこともある。私は、文法も和訳も決して否定するわけではない。だが、「自分が受けた授業」が、何らかの形で誰かに何かを教えなければならないときのとりあえずの「雛形」になるのなら、私たち教える側の人間は、「教える」という作業にもっともっと真摯に慎重に一生懸命取り組まなければならない。たとえ、教えている相手が、「教える」ということを必要とせず、勝手に「学んで」くれる能力の高い生徒たちだとしても。

 いま、私はいわゆる進学校で教える立場だが、教育実習で毎年来る大学生の授業を見るたび、いつも自分のしていることの重大さを実感する。現在の大学教育では、教育学部の高校教員養成過程においてでさえ、「教え」の連鎖を断ち切ることは難しいのではないか。小学校にも英語教育の波が押し寄せてきている昨今、「教え方の連鎖」を念頭におきながら、「文法ばっかりじゃなくって、生徒達がもっと楽しめる、役に立つ授業」を展開していきたいと考えている。大きな意味では、それぞれの生徒が親になり、家庭で自分の子供の勉強を見るときにも、自分が受けた「授業」は影響するのではないか?

 さて、私の日々の授業は「楽しめる、役に立つ授業」かしらん?新任の頃に比べて、少しは進歩したかいな?


(2004年7月)