アンネのことば
一つのくつ
パスポート
命のボウル
赤い服の少女
チクロンラベル
ガス室の煉瓦
差別のマーク
15センチの木筒
囚人服
(朝日新聞連載より)
「私は世界と人類のために働きます。」(アンネ)
アンネの父、オット−・フランク氏が娘の日記の一節を書いて贈ってくださった直筆の書が、ある。見るたびに私は 生前のオット−氏のほほ笑みとあたたかい手の温もりを感じる。
26年前、旅先でフランク氏との出会いがあった。それが「ホロコ−スト」との最初の出会いとなった。その後、スイスのバ−ゼルの自宅でフランク氏から多くのことを教えていただいた。世界中から送られてきた子どもたちの手紙に心を込めて返事を書いておられた謙虚な姿が印象的であった。「平和をつくりだす」原点を見た思いがした。
ホロコ−ストに散った少女アンネ。彼女の平和を願う心が、家族でただ一人、アウシュビッツ収容所から生還した父オット−氏に引き継がれたのだ。
氏は前述の書を通して私たちに語りかけている。
「平和のために何かをする人になってください。」と。
この氏のことばが、記念館建設のきっかけともなった。小さな記念館に今日も訪れる子どもたちに、私はアンネとオッ ト−氏の願いを伝えていきたい。
一つのくつ ホロコ−スト記念館は、小さなくつであらわされる。
ユダヤ人として生まれたという理由だけで、虫けらのように扱われ、その命が奪われた。150万人もの芽が摘み取られたのである。「1,500,000」という数字は、この数の子どもたちが手をつなぐと北海道から九州まで到達してしまう数なのである。
家畜列車での、行き先を知らない長い旅の果て、恐怖と困惑の中でたどり着いた死の収容所。罵声(ばせい)と銃口におびえながら進んでいった小さなくつ。
衣服をはぎ取られ、髪の毛を刈られ、靴を脱がされ、たどり着いたのがシャワ−室。熱い湯に代えて、チクロンBが部屋に満ち、子どもたちはろうそくのように消えて亡くなった。
ホロコ−ストの最大の罪は、ユダヤ人絶滅計画の中で子どもたちが標的となった点である。ナチスは子どもに対して執拗(しつよう)なまでの悪意を持っていた。
「子どもを殺すことこそ意味があるのだ。」とユダヤ人絶滅計画の中心人物であるアイヒマンは語った。
ポ−ランドの絶滅収容所に残された小さなくつが贈られ記念館に納められている。記念室正面にある15センチのくつは、近づく人々に今日も語りかける。
生きたいと願いつつ、ガス室で消えていった子どもの夢と希望を日本の子どもたちに受け継いでほしいと。
パスポ−ト Jのマ−クの入ったパスポ−トがある。セピア色に色あせているが、赤いJのマ−クだけはくっきりと際立っている。賢そうな少年の写真が貼られている。
1938年にナチスドイツはオ−ストリアを併合した。同年10月には、ユダヤ人のパスポ−トにユダヤ人を意味するJのマ−クが義務づけされたのだ。
記念館に展示されているこのパスポ−トはウィ−ン市内に唯一現存しているユダヤ教会の会長、パウロ・グロンツ氏からいただいたものである。グロンツ氏とは、記念館建設中の1995年3月、ウィ−ンのユダヤ教会で出会った。 記念館の設立趣旨を訴えかけると、言葉少なく「分かりました。」と言われ、再び訪れた私に、亡き兄のパスポ−トをくださった。
「20もあったユダヤ教会の会堂の中で残ったのはここだけです。しかしこの会堂も、中は完全に破壊されてしまいました。私の兄は、物陰に隠れていた私の目前で、ナチスの兵隊にこめかみを撃たれ殺されてしまいました。これは、兄の形見の品なのです。」と、グロンツ氏は目を潤ませながら手渡してくださった。
このような自身にとって大切な品を、どうして初めて出会った私にくださったのだろうか。
「ホロコ−ストで亡くなった子どもたちのことを忘れないでください。」
手元にしまっておくよりも多くの人に見てもらい、ホロコ−ストを理解してほしいとの氏の切なる願いがこのパスポ−トに込められている。
命のボウル 収容所で使われた直径16センチ、深さ9センチの食器がある。家畜列車で運ばれた“囚人たち”の生活は悲惨なものであった。与えられた食糧は1日約300キロカロリーにすぎない。今日わたしたちの食している10分の1にも及ばない乏しい量である。人権は全く無視され、過酷な労働に加え、何時間にも及ぶ点呼……。水も汚染され、抵抗力が低下し、伝染病が蔓(まん)延していった。
「私と母はこれと同じ食器で、水のようなスープを分け合っていました。」アンネと同じベルゲン・ベルゼン収容所で6歳の時、2年数カ月を過ごしたバレーボールの監督アリエ・セリンジャー氏は、ホロコースト記念館の開設講演会で、50年の沈黙を破り、自らの体験を語られた。
このボウルには下から2センチぐらいのところに円形の跡が残っている。それはその量でしか食糧が与えられていなかったことを意味している。このボウルはオーストリア北部マウトハウゼン収容所でかつて使用されていたものである。石切場や穴掘り作業などに従事していたユダヤ人らが、このボウルに入れられた、わずかの食事をとって命をつないでいた。その故にこのボウルは「命のボウル」と言われている。
アルミ製の丸い食器──生と死の狭間(はざま)を生きていた、ユダヤ人たちの悲しみを今に伝えている。
赤い服の少女 この絵画は、米国ニュージャージー州に住むホロコースト生還者の画家ジェニー・ネイヤー女史が贈ってくださったものである。縦55センチ、横68センチの油絵で、ゲットー収容所での光景と思われる。
苦しみの中で息絶えようとしている母を必死の思いで見つめている赤い服を着た子ども。その子どもの表情は分からないが、両手を広げて今まさに臨もうとしている母の死を瞬時でもとどめたいと願っているように見える。
母は、この娘に何を訴えようとしているのか。母子の思いが迫ってくる傑作である。事実、このような光景がホロコーストにおいては毎日のように繰り返されていたのである。
赤い服を着た少女は、「シンドラーのリスト」の映画にも登場する。白黒の画面の中でただひとり赤い服を着た少女の姿が、強い印象を与えた。この少女は、妻子を奪われ、ホロコーストを奇跡的に生き延びた1人の生還者が、アイヒマン裁判で赤い服を着た自分の娘の虐殺された様子を涙ながらに証言した事実に基づいている。
「この絵は皆さんに何を語りかけますか。静かに立ち止まってこのすべてのことについて考えて下さい……」
絵とともに送られてきた手紙のなかで、ネイヤーさんは日本の子どもたちにそう語りかけている。
チクロンラベル 1942年1月20日、ベルリン郊外のバンゼーで会議がもたれた。ユダヤ人問題の最終解決、すなわち、全ヨーロッパのユダヤ人を抹殺する計画が正式にこの日決議された。そこに集った15人の出席者のうち、11人が博士号をもった人々であった。
この会議までナチスは特殊行動部隊をユダヤ人の住んでいたところに派遣し、彼らを銃殺する方法をとっていた。しかし、このバンゼー会議後、6つの強制収容所にガス室が建設され、それが本格的に稼働した。そこで使用されたのが毒ガス「チクロンB」である。すでにアウシュビッツでは4カ月前、この毒ガスによる殺人が試験的に行われていた。
チクロンBは、害虫駆除剤として民間人が発明したものである。ナチスは法律で「ユダヤ人は人間以下であり、生きる価値のないもの」と定義付け、チクロンによる大量殺戮(さつりく)を繰り返していった。
このチクロンラベルはイスラエルの博物館から贈られ、毒ガスのシミと思われるものが付着している。これが張られていたガス缶には、チクロンが1.5キロ入っていた。この1缶が使用され、400人の尊い命が奪われた。
20世紀に行われたこのホロコーストの惨劇は、人間のつくり出した史上最大の悲劇である。
ガス室の煉瓦 黒く焼けこげた煉瓦(れんが)がある。まぎれもなくガス室の壁に使われていた煉瓦である。1945年1月、ソ連軍によってアウシュビッツ強制収容所が解放される直前、多くのユダヤ人たちが食糧も与えられず、せきたてられた。事実を隠そうとする工作で40キロにもわたる徒歩による行進が始まった。その「死の行進」の途中、雪道で衰弱し息絶えた子どもたちの写真が残っている。
ナチスは死の行進と同時に、それまでの残虐きわまりないガス室での虐殺の証拠を残さないため、それをダイナマイトで爆破した。しかし、「証拠」は消せなかった。ベルリンで、ガス室建設時の設計図が発見され、また、毒ガスが青銅色に付着している壁が、マイダネク収容所などに残されている。
子どもたちは1度に200人ほど詰め込まれた。初めは歌を歌って励ましあっていたが、やがて恐怖が満ち、パニック状態のなかでチクロンガスが投げ込まれた。
この黒く焼けた煉瓦は、少なくとも50万にもおよぶ人々のうめきと叫びを聞いた煉瓦である。人々は死に臨み、どれほどこの煉瓦を打ち破り、大気を吸いたいと望んだことか。
記念館にある煉瓦は、多くのユダヤ人を移送するために敷かれたレールの留め金、また、有刺鉄線とともに、日本の多くの人々にユダヤ人の悲哀を語りかけている。
差別のマーク 400にも及ぶ反ユダヤ法の1つに、「ダビデの星」の着用義務があった。
記念館にはフランス、ドイツ、オランダ語などで「ユダヤ」と記された差別のマークが展示されている。
三角形を組み合わせたダビデの星は、今から三千年前、イスラエルの王となったダビデ王の紋章であり、その後、ユダヤ人をあらわすシンボルとなった。
ナチスは法律によって、5歳以上のすべてのユダヤ人の左胸に15センチのマークを縫いつけるように強要した。民族の誇りであったこの印が、恥辱のしるしとなった。ヨーロッパ、ロシアにまたがる広大な地域に定住していたユダヤ人を他の民族と区別するためにこの政策が実行されたのである。
ナチスが黄色を選んだのは科学的な根拠があった。黒を好んで用いたユダヤ人の服に最も目立つ色として黄色を選んだのである。
この差別のマークを付けることは即、人間としての権利のはく奪、追放、収容所への移送、選別、労働、死、焼却というホロコーストのプロセスに乗ることを意味した。このようにして六百万人が組織的に、計画的に殺されてしまった。
かつてユダヤ人の服に縫いつけられ、はぎ取られた差別のマークがある。今も糸がその星に残っている。これを付けていた人がどのような運命をたどったのか──。この人が奇跡的に生還し、今幸せに暮らしていることを心から願うのみである。
15センチの木筒 「虐殺の記憶が決して忘れられないことを祈る」
アウシュビッツ博物館ヴルブレスキ館長から贈られた、15センチの木筒が記念室にある。
その中に収められている土と遺骨は博物館のスタッフによって、収容所の第11棟近くある「恐れの壁」から厳粛に採取された。
銃殺が頻繁に行われ、数万人が殺された場所である。
そのすぐ近くに、1人の身代わりとなって生命を捨てたカトリック司祭、コルベ神父が殉教した餓死牢(ろう)がある。神父が示された人類愛は、今もなお人々に大きな感動を呼び起こし、訪れる人が絶えない。
現在、アウシュビッツ収容所は、世界遺産となり、人種、宗教、民族を超えてファシズムの恐ろしさを今に伝えている。そこにはユダヤ人をはじめ、多くの人々から奪い取った、頭髪、めがね、かばんなどが山と積まれている。
ホロコーストは20世紀が生み出した悲劇である。この世の地獄となったアウシュビッツは、人間が考案したものであり、そこで多くの生命が失われた。「命令だったから仕方がなかった」と、収容所長のヘスをはじめ、ナチスの幹部たちは弁明した。
21世紀を目前にひかえ、私たちはアウシュビッツの悲劇を決して無駄にしてはならない。贈られたアウシュビッツの土は、博物館が世界に発信している平和のメッセージを力強く伝えている。「この事実を記憶し、決して繰り返してはならない」との……。
囚人服 古ぼけた青い縞(しま)の囚人服がある。油やペンキのシミが着き、アルミのボタンは変色している。ホロコーストの時代、ユダヤ人たちが収容所で着せられていた服である。
この服は、記念館が送った一通の手紙に感じた人からの贈り物である。
ホロコーストからの生還者であり、解放後、イスラエルに移住し、「ゲットー戦士の博物館」の創立にたずさわったアノリック氏である。氏は今日までホロコーストの教育に生涯をかけてきた人である。
記念館開設後、お礼を述べるために訪れたとき、氏は「その囚人服は、あのアウシュビッツの生還者から預かったものです。実はあなたからの手紙をいただく前に、ニューヨークとフィラデルフィアからその囚人服を寄贈してほしい、との依頼があったのです。しかし、私は日本に贈ることにしたのです」と、言葉少なに語られ、強く手を握りしめてくださった。
ガス室行きを免れたユダヤ人は、左腕に5けたの番号が刻まれ、ただ1着の服が与えられた。零下30度の冬でもこの服1着で過ごさなければならなかった。与えられたわずかの食糧は体内から熱を放射することもなく、銃口の光る監視下での強制労働、衰弱は悲惨を極めた。
少しでも体の動きを止めると、それは死を意味した。
この服は少なくとも5人の人が着たといわれている。左胸に剥(は)ぎ取られた黄色いダビデの星の切れ端が残っている。
このものいわぬ証人はきょうも、訪れた人たちにホロコーストの惨状について、無言で訴え続けている。