「ジョン・ストシンガー博士講演」

サンディエゴ大学名誉教授

2001年11月8日

ホロコースト記念館

(広島県・福山市)


わたしは、一度ならず、
2度も日本人外交官に助けられた

皆さん、今日はお集まりいただきましてありがとうございます。

私はたった今、大変感動的な出会いをして参りました。

私の人生の中でこんなに美しい、こんなにすばらしい子どもたちを見たことがあるでしょうか。

御幸小学校の多くの子どもたち(5年生80人)が、私たちを迎えてくれました。彼らはホロコースト記念館を毎年訪れ、ホロコーストを学んで、平和への思いを表現した、5点の貼り絵壁画(横3縦2メートル)にした作品を紹介し、歌(ビリーブ)を歌ってくれました。

もしかしたら子どもたちのお父様やお母様が、今日ここにお集まりなのかも知れませんが、。御幸小学校に行っておられる子どもたちの関係の方々、手を挙げていただけますか。とてもすばらしい子どもたちですね。

今朝、子どもたちは愛と勇気について話してくれました。

 

今日出会った子どもたちと同じ年頃であった時、私は(ユダヤ人であったため)ナチスの恐怖のもとで暮らしていました。

ヒトラーがオーストリアに侵攻してきた時(1938年3月)に、私たち一家はウイーンを脱出しプラハへ逃げましたが、ヒトラーはチェコスロバキアにも侵攻していました。(1939年3月)

ナチスの手から逃れるため、私たちは必死になって領事館を尋ね歩き、ついに中国・上海へのビザを手に入れました。プラハから上海まで行くためにはソ連を横断しなければなりません。

そこでまずモスクワのソ連領事館に行きました。そこで言われたのは、ソ連を通過するのはいいけれども、ソ連を出国するという証明が必要だと言われました。つまりシベリア鉄道でソ連を横断して、日本を通過するビザが必要でありました。1941年のことでした。

ちょうどその時に、このような噂を聞きました。

「プラハの日本領事館に新しい領事がやって来た」と。そしてその領事はユダヤ難民など、行き場のない人にビザを与えているというのです。そこで私たち一家も領事館の前に並びました。とても長い列が出来ていました。そしてやっと私たちの番が来て領事館の中に入りますと、とても優しそうな30代の紳士が私たちを待っていてくれました。(杉原千畝領事のこと。氏はリトアニアのカウナスの後,当時プラハの日本領事館に赴任していた。)

私はその時13才でした。その日本の領事は私に向かってドイツ語で「日本語をあなたは話しますか?」と聞きました。日本語で私は「はい」と言う言葉しか知りませんでしたが、その日本領事に向かって「はい」と言いました。

すると杉原さんは「よろしいそれでは3枚ビザを出しましょう」といってくれました。

この3枚のビザが私たち家族の命を救ったのです。父、母、私の3人です。

 

こうしてソ連を無事通過し、神戸から上海へたどり着きました。しかし1941年3月、私たちが上海に着いた頃、日本軍が上海を占領していました。事態はあまりいいとは言えませんでした。上海にいるユダヤ人たちはゲットー(隔離地域)へ移され始めていました。

 

さて私たち一家がソ連をシベリア鉄道で横断している時に、車中でもう一人の親切な日本人との出会いがありました。真鍋良一博士であります。その車中で真鍋博士と親しくお話をするようになり、私はチェスを一緒にしました。真鍋さんはわざと、私を勝たせてくれましたので、私は真鍋さんをとても好きになりました。

ウラジオストックに到着し、船で日本海を渡り、別れのときが来た時、真鍋博士は私の母に名刺を渡し、「上海でもし必要なことがあれば私に連絡をしてください。」

母は喜んでその名刺をいただき大切に財布の中に入れ、敦賀で別れました。

(ストシンガー一家は神戸に3週間滞在し、そこから上海に渡りました。)

 

しかし、(1941年12月真珠湾攻撃があり、その後)上海は日本軍に占領されました。上海のユダヤ人たち(無国籍外国人・難民)は皆ゲットーへ移動するようにと命令されました。その時私の母は、シベリア鉄道の車中で出会った真鍋さんのことを思い出したのです。

母は言いました「真鍋さんに会いに行こう。彼はきっと私たちを助けてくれるでしょう。」

母は領事館へ出かけ真鍋さんと会いました。

真鍋さんは私たち家族に、一年間の滞在許可書を発行してくれました。それによって私たち家族は、ゲットーに入らなくて済んだのです。

そのおかげで私はそれまで通っていた、イギリスの公立学校に続けて通うことが出来ました。

そこで英語、フランス語、中国語、そして少し日本語を勉強しました。日本語はあまり得意ではありません。

そして1944年、45年にもやはり母は真鍋博士に出会い、特別な許可をもらってゲットーに入らずにすんだわけです。

このようにして私たち一家は、2人の日本人によって救われました

上海で学校へ通い続けることが出来たことで、私は英語が話せるようになりました。

それで戦後、アメリカの大学へ留学する道が開かれ、数年後ハーバード大学へ入学することができました。(ハーバード大学で国際政治学の博士号を取り、著名な国際政治学者として現在も活躍中)

戦争が終わり解放されて、私は米軍兵士たちの靴磨きのアルバイトをしていました。その時に知り合った一人の兵士が、私にビザの手続きなどをしてくれたおかげで、アメリカに留学することができたのです。

 

 

その後何年もの時が過ぎました。しかしその間ずっと私の母は、「あの二人の日本人の外交官は、今どうしているのだろうか」と思っていました。

60年代、70年代、80年代と時は過ぎて、1992年私の母は亡くなりました。

そして50年経って、私はやっと助けてくれた日本人の居場所を突き止めることができたのです。

私は神戸のロータリークラブで講演をする機会がありました。その講演の時に、一番前の列に5人の記者たちが私の講演のノートを取っていました。

私はそこで思わずこの記者たちに、「あのプラハで私たちを助けてくれた日本人外交官と、上海で私たちを助けてくれた外交官真鍋博士をどうか捜してほしい」と必死で頼みました。

 

その講演の夜、記者の一人、増野さんという人が、私に電話をくれました。

「プラハで誰がビザを出してくれたかわかりました」という電話でした。

今日大塚館長と話をしたところ、館長はその記者の方とも(電話で)話しをしたということです。

是非大塚館長には、現在神戸新聞の論説委員となっておられる増野さんに、今日の出来事、感動をご報告していただきたいと思います。

わたしは、「私たち一家のビザを発給してくれた外交官は誰なのでしょうか」と聞くと、増野さんは「杉原千畝という方です。」

私は増野さんに重ねて問いました。「杉原氏はいったいどうして、なぜそのように、私たちを助けてくれたのでしょうか。」

増野さんは、「杉原領事はあの時代、悪に対して立ち向かった人物なのです。良心に基づいて行動し、無実の難民達を救った人なのです。」と語ってくれました。

私は続けて聞きました。「彼はまだ生きているのでしょうか?」

ところが増野さん「1986年に亡くなりました。」と答えました。

私はとても悲しい気持ちになりました。一言でも杉原領事にお礼を伝えたかったのです。

そして続けて私は真鍋博士の事を聞きました。シベリア鉄道の車中で出会った、真鍋博士の消息をぜひ知りたいと増野さんにお願いしました。

「見つけられたとしても彼はもう90代でしょう。けれども何とか努力してみます。」と増野さんは言ってくれました。

そして私はアメリカへ戻りました。大学に戻り講義をするために帰国いたしました。

私がアメリカに帰って3ヶ月後、電話が真夜中3時に鳴り響き、電話に出てみると増野さんでした。

「見つけました、見つけましたよ」という増野さんの声でした。

増野さんは教えてくれました。「真鍋さんは今、89才で東京郊外に静かに暮らしていらっしゃいます。

電話番号がここにありますので、電話してみたらどうですか」増野さんがそう言ってくれました。

私は真鍋さんに電話をかけたのです。

彼は50年前、シベリア鉄道の車中で出会った時と変わらぬ、流ちょうなドイツ語で私に話してくれました。

今日ここに、同席している私の友人は、私にこう言ってくれました。

「彼に会いに日本に行って、お礼を言うべきでしょう。急いだほうがいい。」

翌日、私のクラスの大学生たちに説明しました。

「今日実は午後、日本に飛んでいかなければならない。お礼を言いたい人がいるのだ。」生徒は皆すぐに私のことを理解してくれました。そして、「先生、行ってらっしゃい。」と言ってくれました。

これはわたしの身に起こった、ホロコーストの悲しい物語でありますが、とてもすばらしいハッピーエンドとなりました。

私は東京へ行き、一週間、真鍋博士と過ごしました。

この一週間は私にとって、夢のような一週間でした。

当時と変わらず真鍋博士は心のきれいな方でした。真鍋博士も私と同じように、その時大学で(ドイツ文学)教えていらっしゃいました。

私は今までずっと胸に秘めていた疑問を真鍋博士にぶつけました。

「なぜ私たちを助けてくれたのですか。あなたの命に危険が及んだかも知れないのに。」

「それは当然のことでしょう。」真鍋さんは言いました。

 

皆さん、私は4人の人物によって助けられました。この事を、ひと時も忘れた事はありません。

一人は上海行きのビザをくれた中国の領事(何鳳山 ホウ・フェンシャン領事)。

そして私をアメリカ留学へと導いてくれた米軍の兵士(海軍大尉 ピ−ター デラメーター氏)、

そして2人の日本人外交官です。(杉原千畝氏 真鍋良一氏)

彼らは悪に立ち向かった人たちでした。

私は大学でも学生に必ずこのように教えています。

「この世の中に絶対悪というものは存在しないのだ。」

どのような民族の中でも、文化の中でも、必ずそのグループの中には悪と立ち向かい、人間の命を守ろうとする人がいるものなのです。

皆さんどうか考えてみてください。60年前日本とアメリカは敵同士だったのです。

けれども今ではこのように友好な関係を築いているわけです。

この希望の可能性というものを考えてみてください。

ここに来るほんの一時間前、御幸小学校で出会ったすばらしい子どもたちが、やはり愛と勇気について語ってくれました。そして戦争を、争いを、差別をこの世の中からなくさなければならないということを話してくれました。

このホロコースト記念館の、大塚館長のこれまでの指導があってのことと思います。

皆さんこの困難な時代、今アフガニスタンでの戦争状態というものがありますけれども、「善は必ず悪に勝つのだ」ということを皆さんに最後に訴えたいと思います。

今日は本当にありがとうございました。

 

 

 

−大塚館長あいさつ−

 

6年前に日本で初めてホロコースト記念館が建てられました。そしてあと240名で5万人の人々をお迎えすることになっています。

私たちは犠牲になった150万の子どもたちを通して、ホロコーストを、日本の子どもたちに伝えたいというその理念に生きています。ここでは、ホロコーストの悲惨な面ではなく、たくさんの人たち(1万8千人)が当時、危険にさらされていたユダヤ人たちの命を助けた事実も教えております。

今日このところに2人の日本人の外交官によって助けられた、ストシンガー博士をお迎えできたことは私たちにとり大きな名誉であります。

ホロコースト記念館は、時折ホロコーストの生還者の方に来ていただき、体験を話していただきますが、そのすべての方々に共通していることは、「過去の事実から未来を見つめて居られる事、未来である、子どもたちをとても大切にしておられる」ことです。

今日御幸小学校を訪れてくださった、ストシンガー博士や同行してくださった10名の方々の姿から、それをお見受けすることが出来ました。

わたしには一つの夢があります。それは、1200万人の日本の小中学生が、記念館を訪問しホロコーストを学び、日本からいじめ、差別、偏見を無くして、世界に平和をもたらすことです。

 

 

代表質問(大塚館長)

Q:今戦争の危機にありますが、ストシンガー博士は世界的な国際政治学者であられ、特に平和というテーマを専攻していらっしゃいます。そして10冊以上の著作をお持ちですが、今の時点で「どうしたならば世界を変え、世界を平和にすることができるか。」お尋ねしたいと思います。アメリカから来られた学者として、ユダヤ人として、そしてホロコーストを生き延びられた方として、今の世界の現状をどのように見ておられるでしょうか。どうしたら私たちが平和を作ることができるでしょうか。

 

ストシンガー博士

A:このテーマについて私はこれまでとても長い間考え続けて来ました。特に今宗教ということが世界で大きな問題となっています。そして結論に達しました。

大切なのは「あなたが何を信じるのか」ではなく、「どのように(寛容な心で)信じているのか。」ということだと思うのです。

あなたの信仰の中に「違いを受け入れる」という寛容さが、この世の中から差別や偏見を取り除くことが出来るでしょう。

世界のどの宗教をとっても、二つの側面が必ずあります。民主的な側面、そして非民主的な側面です。

あなたがキリスト教徒であれ、イスラム教徒であれ、仏教徒であれ、ユダヤ教徒であっても、、、、、、

私は心から願います。異なる宗教を持つ人たちが、他の人たちを心から受け入れ、尊重し合うその時がくることを。

その日がくるならば、それはまさに私たちの子どもたちの夢(平和)が実現される時となるでしょう。

 

 

大阪のアメリカ総領事館・領事クレランス ハドソン氏のあいさつ

 

今日皆様とこの場で共に居らせていただき、またストシンガー博士の講演を聞くことが出来まして本当に光栄に思います。大学生に戻った気分です。先生の話を真剣に、学生になった気分で聞きました。

ストシンガー博士の話を聞きながら、私は手元にある、先ほど御幸小学校で行われた「日米子ども相互協力宣言文」を読んでおりました。この世の中には、様々な違った意見が存在しますが、この原文の中に一つの真実を見つけることが出来たような気がします。

歴史というものは軍隊、また国の権力によって変えられるものではなく、人間一人個人の力によって変えることもできるのです。

子どもたちが真実、身をもって、(平和のために)行動していることは非常に大切であります。そうでなかったら、ただ舞台に立つ俳優のようなもので、セリフどおりに動くことになってしまうでしょう。

その戦いは私たち自身の心の中にあるもので、それはどのような物より、厳しく大切なものであると思います。それをいかに獲得していくかが大切なことだと思います。

今日子どもたちが宣言したとおり、そしてストシンガー博士が今日話された通り、私たちの心の中の戦いにうち勝つようにしましょう。それは自己主義ではなく、「正しいこと、善いことを行う」ということです。

その意味で、今日の子ども宣言は意義深い事であると思います。

 

 

 (お断り)上記の講演で(   )の説明は記念館の大塚が、読者の理解を助けるために加筆したものです。