ホロコーストとは

 ギリシャ語にその語源を持ち、「全焼のいけにえ」を意味していましたが、時代と共に、大規模な破壊、殺人をあらわすことばとして用いられました。第2次世界大戦後、ナチス・ドイツによるユダヤ人や他民族への破壊、大量殺人を意味することばとして用いられ、今日では、主にユダヤ人(600万人)への大量虐殺を表現することばとして、一般化しています。

(ホロコースト百科事典による)

 

やさしいホロコースト史

  1. はじめに
  2. ユダヤ人差別
  3. ヒトラー
  4. 差別の法律
  5. 第二次世界大戦
  6. ゲットー
  7. ユダヤ人皆殺し計画
  8. 絶滅収容所
  9. 移送
  10. ガス室
  11. ユダヤ人の抵抗
  12. ユダヤ人を助けた人々
  13. わたしたちは

はじめに

 

  「ホロコースト」とは、ギリシャ語で「全てを焼きつくす」という意味です。現在ではナチス・ドイツ(1933-1945)によってなされた、600万人のユダヤ人大虐殺をさして使われています。今も人々を差別したり、虐殺したりする事件が、世界中で起きています。ホロコーストの中を生き延びた人々が減っている今、この悲劇が二度と起きないように、その歴史を学ぶことは、とても大切なことです。

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ユダヤ人差別

 ユダヤ人に対する差別と迫害は、ことにヨーロッパにおいては長い歴史をもっています。今から二千年ほど前、国を追われたユダヤ人たちは世界中に散らばっていきました。キリスト教の広まったヨーロッパでは、宗教や生活・文化の違いからさまざまな差別が起こり、また、国の政策が変わると、ユダヤ人が犠牲となることが多くありました。この反ユダヤ主義は、中世にはますます激しさを加え、十字軍の時代(12世紀〜14世紀)には、たくさんのユダヤ人が殺されました。ペストの病気がはやったりすると、それもユダヤ人のせいにされ、大虐殺が起きました。15世紀には、ユダヤ人はスペインから追放され、放浪をくり返さなければなりませんでした。フランスやイギリスなど多くの場所で、このような悲劇がありました。
 19世紀になると、ヨーロッパの科学者たちの中に、ユダヤ人は人種的に劣っている民族で、優秀なヨーロッパ人種の敵であるという考え方が起きてきました。政治家たちも、民衆の人気を得るために進んでユダヤ人を差別し、攻撃しました。こうして、20世紀を迎えるころには、特にドイツには反ユダヤ主義と呼ばれる、ユダヤ人排斥運動が大変強くなっていたのです。

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ヒトラー

  1933年、アドルフ・ヒトラーがリーダーとなったドイツのナチス党(国家社会主義ドイツ労働党)が、選挙によって政権につきました。第一次大戦で敗北したドイツは、経済的、社会的に混乱し、それに拍車をかけて政治の不安定がありました。特に1929年の世界大恐慌により失業者が続出し、人々の不満は頂点に達していました。

 ナチスは、「ユダヤ人がすべての問題の原因である」という考えをもっていました。ユダヤ人は、ただユダヤ人であるという理由だけで、生きている価値がなく、世界を征服しようとしている、怪物のようなものだと考えました。ナチスにとってユダヤ人こそ真の敵であり、ユダヤ人を迫害することは、ドイツ人が生き残るための戦いと考えられました。
 首相となったヒトラーは、ただちにユダヤ人を苦しめ始めました。1933年4月1日、ユダヤ人に対するボイコットを始めました。ナチスの突撃隊は、ユダヤ人の店に看板やスローガンを記し、人々がそこで買い物をすることを禁止し、従わない者は罰を受けました。
 反ユダヤ政策はさらに勢いを増していき、ユダヤ人は公職から追放され、政界や教育の場、芸術の世界からも閉め出されていきました。

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差別の法律

  1935年9月、差別法であるニュルンベルグ法により、ユダヤ人はドイツ市民権を奪われ差別はいよいよ激しくなりました。ドイツ人とユダヤ人の結婚は禁止されました。
 ドイツでのユダヤ人の生活はひどいものとなり、多くのユダヤ人が外国へ逃げたいと希望するようになりました。ユダヤ人を追い出すことはナチスの方針でしたが、他の国々はユダヤ人を受け入れたがりませんでした。1938年7月、フランスのエヴィアンで国際会議が開かれ、32カ国が集まりましたが、何の成果も上げることはできず、ドイツから外国へ脱出できたユダヤ人は、ごくわずかでした。
 思うように国外へ脱出できないユダヤ人に対する迫害はいよいよ厳しさが加わり、ナチスはユダヤ人に対する組織的な襲撃を行いました。1938年11月9日の、「クリスタルナハト」(水晶の夜)と呼ばれる出来事です。ナチスはユダヤ人の教会に放火し、商店を襲い、3万人以上のユダヤ人を、強制収容所に送り込みました。この暴動で91人のユダヤ人が殺されました。

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第二次世界大戦

 1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに攻め込み、第二次世界大戦が始まりました。ポーランドには300万人を越える多くのユダヤ人が住んでいましたが、ナチスは正統派ユダヤ教徒を捕らえては、あごひげやもみ上げを切り落として物笑いにしました。
 その直後、すべてのユダヤ人は黄色い星のバッジをつけなければならないという命令が出されました。これは、ポーランド、オランダ、ハンガリー、ギリシャ、さらに北アフリカなど、ナチス占領下のユダヤ人の目印となりました。

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ゲットー

  ナチスはそれ以前から、ゲットーと呼ばれるユダヤ人居住地域を各地につくり、すべてのユダヤ人をそこに住まわせる決定を下していました。最大のゲットー、ポーランドのワルシャワでは、1.5キロメートル四方の地域に50万人ものユダヤ人が押し込められ、苦しい生活をさせられました。
 ゲットーでの最大の問題は、食料の不足、飢えでした。さらに最悪の衛生状態で、ゲットーの中は伝染病がうつりやすく、チフスや結核によって死んだ人は、飢えによる死者のつぎに多かったのです。人々は道ばたに倒れても、誰も助けるものもなく死んでいきました。その死体は何日も放置される場合もありました。
 生き延びるためには、壁を乗り越え、食べ物を盗まなければなりませんでした。それは特に子どもたちの仕事で、すばしっこい小さい子どもが、勇気をもって食べ物を探しにいき、大人たちを救いました。
 人々はそのような苦しい戦いの中で、人間としての尊厳と、生きる望みを保つために働きました。講演会や勉強会、青年運動や祈りの集いなどが、秘密の内に開かれました。特に孤児院や学校教育には力が注がれました。

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ユダヤ人皆殺し計画

 1941年6月21日、ヒトラーはソ連にも攻め込みました。ここにも、多くのユダヤ人が住んでいました。ドイツ軍と共に「アインザッツ・グルッペン(移動特務班)」がユダヤ人をかり集めては、銃殺していきました。このころから特にヒトラーのユダヤ人に対する迫害が激しくなっていきました。
 ユダヤ人は、大きな穴を掘らされ、そこが彼らの集団墓地となりました。移動特務班はかつてのソ連領土内の多くの場所で、8ヶ月以上にわたり、およそ100万人ものユダヤ人を殺していったのです。
 ナチスは、ヨーロッパに残っているユダヤ人も、同じように全滅させることを決定しました。1942年1月20日、ベルリン郊外のヴァンゼーで会議が開かれ、そこで全ヨーロッパに住む1,100万のユダヤ人抹殺計画が決定されました。それは「ユダヤ人問題の最終的解決」と呼ばれました。

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絶滅収容所

 今までの方法ではこんなに多くの人々を殺すことは不可能でした。そこで六つの「死の収容所」、絶滅収容所が建設されました。それは殺人設備をもつ、死の工場だったのです。ヘウムノ、アウシュヴィッツ、マイダネック、トレブリンカ、ソビボル、そしてベウゼッツ。すべて、最も多くユダヤ人が住んでいた国、ポーランドに作られました。

 絶滅収容所が完成すると、ゲットーではユダヤ人が集められ、移送されていきました。ナチスは「おまえたちを東に移し、そこで生活し、働けるようにする」と彼らをだましました。ユダヤ人は、自分たちがどこへ行くのか知りませんでした。ナチスは彼らが恐怖や不安をもたないように、うそをついて安心させ、ユダヤ人は自分の荷物をまとめて、移動のために集まりました。

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移送

 人々は貨物列車、家畜運搬車に乗せられました。一両に百人以上も押し込まれ、座る場所もなく、呼吸をするのも困難でした。それは「死の収容所」への長い旅の始まりでした。
 その旅は数時間のこともありましたが、ギリシャ、フランス、オランダなどからの移動は、最もひどい状態で数日に及びました。夏の暑さの中でも水は与えられず、凍てつく冬に暖房もなく、列車が収容所に着くまでに多くの人々が死んでしまいました。
 収容所に着くと、人々は長い列に並ばされ、「選別」が行われました。病人、子供、老人などが一方の列に、若くて働けるものは、もう一方の列に並ばされました。即座に殺される人々と、強制労働のためにしばらく生かしておかれる人々を選び分けるのです。

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ガス室

 人々は「シャワーを浴びるのだ」と命令され、服を脱がされ、髪の毛をそられ、裸にされて、シャワー室に入りました。ドアが閉じられると、湯ではなく、毒ガス、チクロンBがそそぎ込まれました。10数分で全員が死んでしまいました。
  死体が、ガス室から運び出されると、貴重品は金歯まで集められ、死体は焼却炉で焼かれました。アウシュヴィッツでは一日に、1万2千から1万5千の死体が、「処理」され、焼かれたのです。
  選別されて生き残った人々は、強制労働収容所に移されました。そこは高圧電流の流れる鉄条網で囲まれ、逃げることはできません。収容所では地獄のような生活が待っていました。囚人は髪の毛をそられ、縞模様の囚人服を着せられ、腕に番号が入れ墨されました。
 収容所での生活は、無理やりに働かせる強制労働と、飢え、そして絶え間ない恐怖の日々でした。ひどい環境に耐えきれず、ほとんどの人が数カ月のうちに死にました。病気で倒れた人々は容赦なくガス室へ送られました。
 ナチスの医者たちは、囚人たちを使って様々な、人体実験を行いました。そのために障害者になったり、 死んだ人々も多くありました。

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ユダヤ人の抵抗

 ワルシャワ・ゲットーに、ユダヤ人が、皆殺しにあっているというニュースが届いたとき、そこにはもう少数のユダヤ人しか残っていませんでした。しかし、彼らは、モルデハイ・アニエレヴィッツをリーダーとして、地下組織を作り、1943年4月19日、武器を持って立ち上がりました。成功する希望はありませんでしたが、むざむざとではなく、戦って死ぬという目的だけがありました。
 武器はほとんどなく、戦える人数もはるかにおよびませんでしたが、戦闘は数週間にわたりました。ドイツ軍はついにゲットーに火を放ち、完全に破壊しました。生き残ったユダヤ人は皆収容所に送られ、ワルシャワ・ゲットーは完全に破壊されました。
 ほかのゲットーや収容所でも、抵抗運動が起きました。白ロシアやユーゴスラビアなど、ナチスと戦う軍隊に加わることができる地域では、ユダヤ人がドイツに対する戦いに参加しました。

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ユダヤ人を助けた人々

 この恐ろしい時代に、スウェーデンの外交官、ワレンバーグや、日本の外交官、杉原千畝、ドイツのシンドラーや、もし見つかれば自分も殺されることを承知で、ユダヤ人が逃げるのを助けたり、かくまったりした人々もいました。彼らは「諸国民の中の正義の人」と言われ、ホロコーストの時代には1万3千人のこれら勇気ある人々がいたことが知られています。
 1945年、世界大戦は終わろうとしていました。西側諸国とソ連の連合軍はドイツ軍に打ち勝ち、次々に収容所を解放していきました。そこにはまだ焼却されていない多くの死体が置き去りになっていました。その光景は、これまで人の思いにも及ばないほどの恐ろしい光景でした。
 30万人のユダヤ人が収容所から生き残りましたが、解放されて、出身地に戻った人々はわずかでした。家族も、帰る家もなくなってしまったからです。彼らは自由を求めて、様々な国々へと移り住んでいきました。また自分たちの先祖の国、イスラエルへと移住した人たちも多くありました。

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わたしたちは

 私たちはこの歴史の中で事実を学び、ホロコーストのような悲劇が再び起こることがないような、差別や偏見のない社会を築いていきましょう。
 アンネの父、オットーフランク氏の言葉が響いてきます。

 「平和は相互理解から生まれます。
 アンネたちの悲劇的な死に同情するだけではなく、
 平和を作り出すために、何かをする人になって下さい。」

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