野望編
「銀英伝」において用兵の根幹とされるのは、”敵より多数の兵力を整え、無駄な兵力を作らないこと、そして戦略と戦術では戦略の方が重要である”ということである。
敵より多数の兵力を整えること、我々が将棋を指すにあたって戦術的にはこれを常識としている。しかしながら、より広く盤面を捉えて戦略的な見地からみた場合には、このことはどうしても軽視しがちになっているのではなかろうか?
再掲第1図において考えてみよう。
再掲第1図
後手:T氏
後手の持駒:歩
先手:藤田
先手の持駒:歩
再掲第1図において、主戦場の左翼に展開している先手の兵力は飛角金銀桂香で、さらに援軍も望める。対して後手の右翼は飛角桂香のみであり、しかも桂香は全く働いていない。後手の優る点は、その戦力の機動性のみである。再掲第1図における飛車交換は、一見、この機動力を拡大することと錯覚しがちであるが、実際に▲8九飛と自陣飛車を打つと、後手の飛車の行動可能な範囲は全く変化していない。この一方で、先手の機動力は歩を手持ちにすることでむしろ増大しているのである。これは、戦術的には小さな勝利にすぎないが、居飛穴の本陣の方は攻めない、すなわち、居飛穴そのものを遊兵とみなすことによって得た戦略的勝利のため、後手にとって致命傷となったのである。
数というものの戦略的重要性に気付き、風車がこの戦略構想の一つの表現であることを認識したとき、私の中の将棋というものは劇的な昇華を遂げ、勝率はそれまででは考えられないほど上昇した。このときの私は将棋部部内のレーティングは一ヶ月の間に100点以上増加し、ついで、S61年度の学生王座戦では、ほぼ末席ながら、4戦全勝の好成績を残すことができた。
戦略上、敵より多数の戦力を主戦場に投入し各個撃破を図るという構想は、むろん、風車対居飛穴以外にも通用する。あらためて観察してみると、かなりの実力者であっても、ときとして、明らかに数が足りないのに自らの戦術能力を過信して結局切らされてしまうことがあることに気付く。これは将棋においては誰もが犯しやすい過ちなのである。
「戦力が足りない。」という戦術的には誰もが知っているこの論理が、何故か戦略的にはどうしても軽視されることが多いのである。
居飛穴の端からの強襲!藤田はこれに自らの玉を持って敢然と対抗するのであった。
戦術とは小さな領域で見た場合の戦い方、戦略とはより大きな領域での見地からの戦い方である。ここでいう将棋における戦略とは、例えば、どの方面で戦ったら(あるいは戦わなかったら)より有利に戦局を進めることができるのか?といった判断のことである。
将棋の一般的な入門書では、まず戦術的な数の論理から入り、次に手筋による数のごまかし方を教える。この戦術の二つの基本を教わったあとは、いきなり高度な定跡を理解することを求める。
将棋における戦略の基本である、相手の手薄なところを狙う、といった考え方の重要性はなかなか理解する場がないのではなかろうか。