オールド・ノリタケの魅力


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presenting since Sept 11th, 2004
updated on Jan 30th, 2005

特集

戦争と平和
War and Peace


Prosperity and Collapse, Wars & Peace




ここでは、オールドノリタケが戦争や軍と関係したアイテムと、
戦前・戦後の平和を象徴するアイテムを紹介したい。


明治維新以来、第二次世界大戦まで、我が国は度重なる戦争を経験した。
近代国家と成立は、諸外国との戦争の始まりでもあった。
欧米列国との覇権争いは、好むと好まざるとにかかわらず、
我が国を帝国主義へと駆り立てていった。
その結末は、昭和20年(1945年)8月15日のポツダム宣言の受諾であるが、
さらに大きな視野で見てみると、現在の繁栄と平和もが、多くの犠牲を伴った戦争の結果とも言える。

オールドノリタケ、そして、森村組や森村Brothers(後の森村商事)、日本陶器株式会社(後の、ノリタケ)は、
戦争とどのようにかかわったのであろうか?


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19世紀の後半に、欧米への陶磁器輸出業として成功した森村組は、
明治37年(1904年)に近代的な株式会社・日本陶器株式会社を設立し、
その後の発展を確固たるものにした。
今年は、それからちょうど100年目にあたる。
この年は、日露戦争勃発の年でもある。
我が国はロシアとの戦争に勝利し、ようやく列強の仲間入りを果たした。

時の政府にとっても、陶磁器輸出産業の振興は重要な関心事であったことであろう。
また、政府主導の経済政策や輸出振興事業の保護を受けることを快しとせず、
(このあたりのことは、森村市左衛門の伝記に詳しい)
自らの経営努力によって発展してきた森村組/日本陶器株式会社としても、
国や軍の仕事を受注することは重要であったはずである。

森村組や日本陶器株式会社などで代表されるオールドノリタケに関連した、
戦争アイテムを、いくつか紹介する。

東郷平八郎提督

本品は無印だが、あきらかなNipponアイテム。
直径約4.5cmのPill Box。
当時の日本では、
このような品物を
勝手に作ることが
はたして可能だっただろうか?
軍や政府の許可や依頼があったのだろうか?

あまりにも有名な日本帝国連合艦隊司令長官である。
日本海海戦に劇的な勝利をおさめ、世界的なヒーローとなった。
100年前には世界中の人々が東郷!と叫んでいたに違いない。
西郷隆盛の後ろをついて回って遊んだはな垂れ小僧は
今では全国の東郷神社に祀られている。
世界の提督の肖像をシリーズにしたビールがあったが、
東郷さんはそのひとつになっていた。今も入手可能だ。
アルゼンチン・ブエノスアイレスに1905年に最初できたJapanese shopは、
「TOGO」と名付けられた。
アルゼンチン海軍と日本海軍の結びつきは強かった。
対露戦争準備のために軍艦2隻を急きょアルゼンチンから買い受けたことが縁で、
両国海軍の親交は終戦まで続いた。
外交面でも同様である。
アメリカの強い勧告によって、昭和19-20年に南米諸国が次々と我が国に宣戦布告したが
アルゼンチンの宣戦布告は、世界で最も遅い国の一つだ。
終戦直後に、もっとも早く支援物資を届けてくれたのもアルゼンチンである。
フォークランド紛争における日本のアルゼンチン批判/英国支持は、
西側諸国のなかでは、もっともトーンダウンしたものだった。

(ゴルゴ13の本名がデューク東郷ということはあまり関係ないか??)



  昭和初期は、不景気にあえぐものの、人々は戦争をはっきり自覚していたわけではなかったであろう。
昭和6年(1931年)、初めて大リーグ選抜チームが来日(読売第一回日米野球大会)した。
(このあたりのことは、永田陽一著/ベースボールの社会史・東方出版に詳しい)
ノリタケは、記念のすばらしいアイテムを製作している。
これほど日米親善と両国の野球好きを表す品物はない。

 
左;レフティー・グローブLefty Grove、右;ルー・ゲーリッグLou Gehrig。
第一回来日チームの花形選手(共に野球殿堂入り)のFacsimile signature入りボール型小壺
Backstampは、Spain classification 3.4 - 07.0  高さ7.5cm
米国大リーグチームは昭和9年(1934年)にも来日を果たしたが、日米の友好ムードはその後悪化を辿る。



  オールドノリタケにも次第に軍国主義の影が忍び寄る。
この時期においてさえもファンシーな陶磁器を盛んに輸出していたものの
軍や国からの仕事がなければ、
森村組も日本陶器株式会社も厳しい状況だったのではないだろうか?
と言うよりも、それは国の運命を賭けた戦いだった。
誰もが否応無しに、国のため、戦争準備・遂行のため力を合わせなければならなかった。
当然のことながら、昭和10年(1935年)頃から日本陶器株式会社も
陶磁器生産は縮小、
研砥石生産への転換を余儀なくされ、軍需産業としての色合いが大きくなった。
兵隊が描かれた下のプレートは、いろいろなことを物語っているように思える。


満州出兵記念プレート



満州に出兵した第十六師団が記念に製作したもの。
昭和11年6月とある(1936年)。
日本陶器株式会社製造である。

昭和11年(1936年)は、いろいろなことがあった年である。
2.26事件、
満州では戦線の拡大
純国産自動車の生産開始
ペルーにおける日本移民の事実上禁止令発布
日本プロ野球発足、
巨人軍・沢村栄治投手が、ノーヒット・ノーラン達成
ベルリンオリンピック(金メダルの前畑さん活躍)
国会議事堂落成
チャップリン来日などなど
すでに軍靴の音が響くものの、まだ一時の平和を感じさせるものごとも交錯していた。


翌昭和12年(1937年)、日華事変勃発。戦争への突入はもう避けられないものになった。
この頃ノリタケは、日華事変で活躍した海軍九六式陸上攻撃機の皿を作成している。
これほど兵器を精密に描いたノリタケの品物は珍しい。
明らかに中国大陸を飛んでいる意匠と考えられる。
Backstampは、Spain classification 3.4 - 07.3 直径25cm





森村Brothersのアメリカ支配人として、
ニューヨークで活躍していた村井保固(やすかた)は、
森村市左衛門や、大倉孫兵衛・和親らとともに、
森村組・日本陶器株式会社の重鎮であった。
明治12年(1879年)の初渡米以来、計90回も大平洋を行き来したという。
その記録は、おそらく誰にも破られない世界記録であろう。
それはともかく、毎年のように日本とアメリカを往復することによって、
次第に変貌する我が国を最も肌で感じる一人であったはすだ。
また、アメリカ人女性Carolineさんと結婚していたこともあって、
帰国しては反米感情に、渡米しては反日感情に、揺れ動かされたことであろう。
彼は2.26事件の2週間前、昭和11年2月11日に日本で没した(享年83歳)。
死の床にあっても、I must goと言い続けていたという。
彼の死を待っていたかのように、両国の関係は悪化し、対米輸出はにわかに低下していく。


昭和6年(1931年)村井保固
89回目の大平洋横断(最後の渡米)(78歳)

明治34年(1901年)頃 熱海大倉別邸
右から3・4番目が村井夫妻、一人おいて、森村市左衛門と大倉孫兵衛。



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日本帝国海軍病院船「朝日丸」


長さ約17cm 
朝日丸は、我が国初の本格的な病院船である。
無線電話を備えた豪華客船として台湾航路に登場するが、
海軍に徴用されてしまい、昭和12年(1937年)、病院船に改造された。
オールドノリタケのモデルは、まだ煙突が二本ある初期の朝日丸の姿である。
なぜ、このような記念のFigureが作成されたのだろうか?
初めての病院船をアピールしようとした軍の意図がなかったとは考えにくい。
日本陶器と海軍の結びつきは早い。
軍艦では洋食が多かったし、海外への表敬訪問などの際は、
かならずレセプション・パーティーが催されるために、もともと需要があった。
そのため、日本陶器は海軍艦船内で使用する洋食器を、明治44年(1911年)頃から納入するようになった。
グリコも海軍の指導をうけてよく似た軍艦のオマケ(ブリキ製)を製作している。
ともに、今日のプラモデルWater Line軍用艦シリーズを彷佛させるデザインであることは、偶然ではなかろう。


ところで、
第二次世界対戦中に沈没した艦船は、いったい何隻になるのだろうか? 
ここでは、戦争の悲劇を詳細に述べることはしないが、
海に囲まれ海に生きる我が国の悲劇は、
軍人や軍用船ばかりではない。
今夏は、NHKが阿波丸の特集を組んだが、
民間人の犠牲や徴用された民間船の実態は、語られることがまだまだ少なすぎる。


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戦争集結(敗戦/終戦)後、先人達の弛まぬ努力によって
我が国は不可能と言われた復興を成し遂げた。

森村組/日本陶器株式会社も、戦後は一変したように見える。
まず、森村組は森村商事という総合商社に衣替えしていった。
今では、陶磁器輸出業からは一線を画した経営をしている。
戦前、とくに創設者達が親密な関係を保っていた時代には、
日本陶器株式会社と森村組は表裏一体/一心同体と関係であったが、
次第に、別々の営利企業として独自の道を歩み出したということなのであろう。
日本陶器株式会社はノリタケカンパニーリミテドとして発展成長を遂げた。
裏印を「M」から「N」に変えてしまったことが、このあたりのことを象徴的に物語っている。
戦争に多くの社員や職人が徴兵され、そして帰らぬ人になった。
日本陶器株式会社の工場も戦災に遭い、多くの歴史的な記録も失われた。
戦後は、戦前にもまして高品質の陶磁器を大量生産するが、
戦前の味は、ことごとく消え去っているように感じる。
これには、戦争によって多くの職人と、
会社や工場そのものを失ったことと無関係ではあるまい。

森村市左衛門の弟(豊氏)や村井保固が築いたアメリカの現地法人Morimura Brothers(明治11年・1878年創立)は、
戦争中に資産凍結の憂き目にあい敗戦に至っている。
森村・大倉一族に比べると、村井保固のその後は、「ない」に等しい。
歴史の表舞台に登場しないのである。
(村井の名が残るものと言えば、郷里愛媛県吉田町の村井幼稚園がある)
創設期メンバーの一人としては、あまりに寂しい。
慶応義塾を卒業しても、官僚や政治家への道を歩まず、明治12年(1879年)に福沢諭吉の紹介で森村組に入社、
市左衛門と関西へ二人行脚することから、保固の修業が始まった。
渡米後、彼の才能は如何なく発揮され、
「彼の力なくして、森村のアメリカでの成功はあり得ない」とさえ言われた。
個人の仕事として、南米アマゾンの開拓まで始めるほどの資産家に登りつめたが、
(おそらく、両国関係の将来を憂い、新しい展開を模索していたにちがいない)
日米の開戦が、村井氏やその家族の運命を決定づけた。
最後まで営業一筋のビジネスマンだった村井氏のそれが悲しい顛末であるが、
死後、男爵に列せられている。


New York Morimura Brothers

前列右から二人目が村井保固(明治30年代)。
(掲載した白黒写真はすべて、昭和18年・村井保固愛郷會発行「村井保固傅」より転載)


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ノリタケは、戦後も大発展した。平和産業とともに今も歩んでいる。
諸外国には森村組でも森村商事でもなく、ノリタケカンパニーの支店が展開することになった。
そんななかで、平和を象徴するようなノリタケアイテムを紹介する。

トヨタ創業40周年記念アイテム 1976年(長さ約30cm)



お気付きのように、当ページではずっと昭和11年にこだわっているが、
このノリタケのアイテムは、やはり昭和11年(1936年)に生産が開始されたAB型フェートンモデル
トヨタは昭和11年から、AA型モデルAB型フェートンモデルの生産を開始したが、
これらの国産自動車はほとんどが軍に納車されたようである。
トヨタは、今では、平和と繁栄の象徴(いずれは、大気汚染の象徴となるかもしれないが)
ノリタケもトヨタも、日本の製造業を引っ張る愛知県に本拠地を置く会社である。


1996年・オリックス優勝記念プレート


オリックス・ブルーウェイブズは、
現在近鉄バッファローズとの合併問題を抱えている。
二球団だけでなく、日本の野球界、プロスポーツ全体にかかわる大問題だ。
日本のプロ野球は1934年発足とも言うが、現実にリーグ戦が始まったのは1936年(昭和11年)。
かの沢村栄治投手は、その年ノーヒット・ノーランを達成。
しかし、1944年(昭和19年)召集され、上記の第16師団に入隊。
フィリピンに向かう途中で輸送艦もろとも撃沈され、戦死した。
それから経ること60年目の今日、野球界は揺れに揺れ動いている。
1996年当時のオリックス・プルーウェイブズは強かった。
一郎ICHIROは輝き、チームはV2を達成した。
彼が抜けてからのオリックスは、蛻の殻。
金のかかる選手を追い出し、最後にはこんな大問題を引き起こした。
しかし、合併で世間が騒がしいのは、
平和と幸福を我々が享受しているという象徴的な話である。



平和を象徴するものはなんだろうか? 私は、それは人々の笑顔だと思う。
ホームページ開催5周年記念特集を、9月11日にスタートさせることも、
もちろん、そのような意味を含んでいる。人種や宗教の分け隔てなく、誰もが、憂いなく笑えること、
それがもっとも大切なことだ。


もうひとつあった!
平和の象徴は、世界中で多くの人々が、オールドノリタケを愛していること!
これにつきるかもしれない!
半世紀前に敵対した日米両国に、いまではNippon/Old Noritake愛好家が一杯いるなんて!
時々見かける裏印が削り取られてしまったオールドノリタケの品物。あれは、何を物語る?
Pearl Harbor奇襲によって引き起こされた強い嫌日感情はMade in Japanの裏印を消してしまうほどのものだった。
しかし、品物そのものは愛着や信頼性があったから壊さなかったと私は考える。
もちろん叩き割った人も多かろうが。
そのような信頼や愛着を持つような商品を販売していなければ、今日のオールドノリタケ熱もあり得なかったはずである。
We Love Old Noritake!!



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This page has been proposed as my original opinion since Sept 11th, 2004.
Last updated on Jan 30th, 2005.

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