はじめのおことわりm(__)m
このレポートは97年11月に開催された研修会のものです。HPのリニューアルに伴い、再UPします。
嗚呼、哀愁の山陰路 鳥取の砂丘に消ゆる、我が涙。(なんやねん、それ・・・) |
11月8日土曜日11:30
鳥取市に向けてAPを出発する。目的は第5回合同手話研修会への参加。当初一緒に行く予定だった事務局のDさんは勤務の都合で不参加となった。やむを得ず単独で行くことにする。天候は快晴、これが普通のドライブだったらどんなにか良かったのに・・・・。
ルートは山陽自動車道から中国道に出て、津山から国道53号線を北上の予定。
同12:00過ぎ
山口南IC到着。山陽道に進入する。その後下松SAにて最初の小休止をとる。高速道路は移動時間が節約できる反面、運転が単調になるのがきらいだ。APを出る前に食事を取っているので昼食の時間を惜しみ移動時間に当てることにする。日の高いうちに距離を稼いでおきたい。
同14:00過ぎ
広島と岡山の境、帝釈狭のSAに到着、燃料の残存を確認。約半分を消費していたためここで補給することにする。さすがに中国地方を代表する紅葉の名所である。まだ少し早い感じもしたが、秋の深まりを感じてしまった。しかし、この後とんでもないことが起こることはこの時は知る由も無かった。
給油が終了し、出発しようとしてガソリンの料金を払いながらスタンドのおっちゃんに何気なく「今から鳥取市まで行くんですけど、このまま津山までいって53号線を行くのと、米子自動車道を通って行くのとはどっちが早く着きますかねぇ?」なんて聞いたら、「そりゃあ、米子に出た方が絶対早いよ!]という答えが返ってきた。『そんな!米子から鳥取までは100キロちかくあるのに?そうか・・・53号線はきっと凄い山道で、そこを通るよりも米子自動車道に出た方が結果的には近いのかも・・・。そうに違いない!なんたって地元のおっちゃんの言うことだもんなぁ・・・・。よし!』
急遽ルート変更。新見で降りることにした・・・・。高速道路を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
同14:27頃
新見のICをでる。料金所のおっちゃんに「米子自動車道はこっちで良いんですよね?」と聞くと、親切に地図をくれた。しかし、米子自動車道はどこにも書いてない。不思議に思っておっちゃんに聞くと「右の道を行ったら米子に出れるから。」と教えてくれた。『最近の道路公団は親切だな・・・』この時は本当にそう思った。
新見のインターを出てから走ること約15分、道も細くなり太陽も山にかかり始めてきた。やはり山間部は平野部よりも夕闇が早くやってくるように感じる。3時頃のはずなのに宇部と比べると1時間は時間差があるように思えてくる。『まてよ、これだけ走ったのになんで米子自動車道の入り口が無いんだ?だいたい高速道路から直接繋がってるんじゃなかったのか?』
『本当に新見で降りて良かったんかいな?(汗)』
同15:10
ことここに至ってルートの選択を誤ったことに気がついた。友人のシャーさんほどではないにせよ、普段ならば長距離ドライブの場合、目的地までのルートは最低2本は考えて、所用時間を算出した上で出発ということになるのだが、今回の場合は実を言うと本当に直前までは行きたくないなぁ等と思っていたため、当初の53号線ルートしか設定してなく、地図もそれに即したものしか用意していなかった。高速のSAで地図を買おうかとも思っていたが、結局そのままここまで来てしまったのである。何にしてももはや後の祭りである・・・。帝釈狭のGSのおっちゃんや新見の料金所のおっちゃんに文句を言ってもどうしようもない。身から出た錆である・・・。この道は国道180号線、確かにこのまま行けば米子まで行けるが、まだ70キロ近い距離がある。一度引き返して再び高速に乗るか?とも考えたが・・・・やめた!腹を据えてこのまま行くことに決定。太陽はもはや山肌に隠れてしまいそうだ。こんな所では生活したくないな・・・・・マジでそう思った。(新見の人、ごめんなさいm(__)m)。
同15:30過ぎ
ひたすら山道をデミオは走っていく。この車、町中で走るぶんには本当にいい車なのだが、いかんせんエンジンに伸びが無い。まあ、高速道路でも100キロで巡航するぶんには問題無いが、登り道や追い越しの場合にはちょっちストレスが溜まってしまう。山道ではなおさらのことだ。結構低速トルクはあるはずなのに、そこからが伸びないんですよねぇ・・・・これが。
などと思いながら走っていると急に目の前の視界が開け、突然大山が姿をあらわした。初めてみた。感動した。本当に!頂はすでに雲に覆われ、すこし雪もかぶっているようだ。こんなにきれいな山だとは思わなかった。さっきまで道を誤ってプンスカしていた気持ちもこの時はどっかにいっていた。
同16:40過ぎ
途中からなんとか米子自動車道に上がることが出来(江府から)、米子市についたのは5時をまわっていた。ここから国道9号線を約100キロも行かなくてはならない。交流会が始まるのは6時半、絶対に間に合わんだろうなぁ・・・・・。
もうすぐ夕方のラッシュも始まるだろうし・・・・。
同17:00過ぎ
いまどの辺を走っているんだろう?とりあえず米子市は通過しているようだ。そういえば鳥取にはハワイ(羽合)があったっけ・・・・。右手にはあいかわらず大山がみえる。国道9号線から見る大山はまるで平野の中にいきなりどでかい山がずでぇぇぇぇぇぇんとふんぞり返っているように唐突にそびえて見える。それだけ周りのほかの山々とは違う威厳を備えている。などと思いながら国道を走っていると渋滞に引っかかった。やれやれ・・・・・・・・・と、「ぴーぽーぴーぽー・・・・」『あれ?ってもしかしてこの渋滞は交通事故!?』
同17:20頃
車はぜんぜん進んでいない。他の車のドライバーも自分の車を降りて前の方に様子を見に行ったり、なかにはUターンして引き返す車も出てきた。『こりゃ長期戦だな・・・・・・・』すると今度は後ろから「ウゥ〜ウゥ〜」。やってきたのは消防署のレスキュー車両だった・・・・・・。
同18:10頃
9号線のどこかの『道の駅』。結局さっきの事故は交差点のど真ん中での衝突事故で、車3台がぶつかったらしい。渋滞を抜けるまで30分くらいかかってしまった。この道の駅から鳥取まではまだ60キロ以上はある。とりあえず交流会の会場に電話をした。交流会は8時30分までだそうだ。間に合わなければ、直接ホテルに行く旨連絡した。なんてこったい・・・・・(TT)。
同19:50頃
ついに鳥取市に進入。無理していけば交流会に行けないことも無いが、市内の地理も良く分からない
ので市内地図を購入することにした。ちょうど目の前に○ーソンがあった。
さっそく地図を買って現在位置を確認・・・・・・。ここはどこ?
おまけ・・・米子自動車道は新見と津山の間の落合JCTから直接いけた。
同20:00頃
鳥取駅前にやってきた。ホテルはこの裏手にあるはず。交流会の会場もすぐ近くのはずだ。駅の裏に回ると目の前に宿泊予定の『ニュー鳥取ホテル』があった。交流会?なんですかそれ?頭の中にはホテルのベッドしか無かった(N2爆!)。
同20:45位
交流会には結局参加しなかった。やがて交流会に参加していた連中がホテルに帰ってきた。
わたしの姿を見つけると、
「あれえ?創さんー!いつのまにい?」
などと言いながら集まってきた。まさか『道を間違えちゃってさぁ〜』などと言うわけにもいかず、『お、おう!なんやかんやといそがしゅーてのぉぉぉ!』とごまかさざるをえなかった(^^;。
同21:00
中国地区手話サークル連絡協議会の理事が集まって、明日の研修後に開かれる総会について打ち合わせ。今年から鳥取の県手連が復活したため、ここにやっと本当の中手連になった。全通研との合同研修会になって今年が5回目、中国5県がひと回りしたことになる。
席上『そんなにシャチホコばった席でも無いんだけど・・・』今後の中手連のあり方に付いて広島のMさんから提言があった。要約すると『ろう者だけではなく、他の障害者との連帯行動について中手連として提言して行くべきではないのか?』ってなものだった。もともと手話サークルの連絡会として県手連があり、その県手連の情報交換の場所として中手連がある。そのための年に一度の研修会であり、それを開くために中手連が存在しているといってもいい。福祉問題の啓発や取り組みはやはり全通研の方が傾向としては強い。
ただ、山口県の場合は県内に手話サークルが誕生した時から県手連が先頭に立って手話通訳の制度化や聴覚障害者の福祉問題の啓発活動を県ろう連とともに行ってきた経緯があり、そのなかから全通研山口支部が結成された。したがって他県の県手(サ)連とは若干活動の趣が違っている。だからといって山口の県手連がその構成サークルを統括しているというわけでもない。あくまで連絡会である。
この提言は、山口以外の県手連にとっては少々お門違いといった感があったらしい。とはいいながらたしかに中手連の活動も転換期を迎えつつある、ということに対してはその場の共通理解となったので次回2月の理事会までに各県手連で協議しておくことにし、理事会を終えた。
同22:00
理事会も終わったので山口からの参加者が集まって宴会が始まった。部屋は山口市のろうあ者Oさんの所だ。今回山口からは県手連5名・全通研山口支部5名・県ろう連4名の計14名が参加。宴会は1時過ぎまで続いた。この時間になって自分の部屋に初めて入った。
11月9日・日曜日07:30
ホテルの朝食が無いため、みんなで鳥取駅の構内へ食事をしに行く。入ったのは表口に近い蕎麦屋さん(名前は忘れた)。えび天そばを注文する。あまりおいしくはなかった。
同09:00
研修会会場の鳥取市総合福祉センター『さざんか会館』にいく。場所はホテルのすぐ裏手。目の前は夕べの交流会の会場だった。いってないけど。
参加した分科会は、『手話サークルってなに?』というテーマで、さらに2つにわかれていた。多分参加人数の関係だろう。わたしは2部のほうらしい。
ほんとうはすでに昨日分科会の前半が開催されており(時間的には中国山脈を彷徨っていたころ)、サークルに求められる役割について討議されていた。つまり、会員にとって手話サークルとは何なのか?ろう者にとってサークルとは何なのか?地域にとってサークルはどうあるべきか?といった問題についてである。
さすがに中国5県からサークルが集まってくるといろいろな話が聞ける。そのなかでやはり町村部のサークルの場合にはろう者との交流が少ないという声が多かった。
そして手話サークルはどうあるべきか、というテーマに移っていった。ここの分科会の座長は鳥取の手話サークルの菅沢さんという人だ(お寺のお坊さんみたいな感じの人だった)。この人の話を聞くとどうもサークル活動の最終目標を『完全参加と平等』『バリアフリー』の実現、として捉えているようだ。『う〜む、かなり遠大な計画だな。』ハッキリいってこれが率直な印象だった。じつは昨日の理事会の時にも感じたことだが、鳥取の県手連がこのたび復活してかなり役員もやる気になっている。事務局の高田君もまだ20代半ばくらいの青年だ。もっとも年配のベテランが全通研活動の方に専念しているから、という事情もあるようではあったが・・・・。理事会の討議の中でも「とにかく目標は高いところにおいて、その実現に向けてがんばっていく・・・」みたいな発言が多かった。もしかするとこれがいまの鳥取の県手連の共通テーマなのかも・・・・・・・・。それはそれとして、なんだか目標を高いところにおきすぎてるんじゃないか?という印象があった。
そんななか、実際に参加者からの提言は終始サークル運営や、ろう者との交流、学習会の進めかたといったことばかりだった。そうだよ、地道な活動の積み重ねが『完全参加と平等』『バリアフリー』の実現につながるのさ。(消極的かな・・・・)
そんなこんなで時間が過ぎていき、島根のろう者Mさんが本当に貴重な意見を出してくれた(と思ったのは私だけかも)。内容はサークルとろう者の関わりについてであったが、『ふつう耳の聞こえる人は、私たちろう者のことは何も知らない。しかし、私たちろう者も耳の聞こえる人の世界のことはわからない。それはお互いが心の壁をもっているからで手話通訳や手話サークルがその壁を中和してくれるからお互いを知る事ができる』(ほぼ原文)という表現だった。
これってまさにATフィールドの中和じゃん!
もしかしてこのHPをしっていたのか?!(あんた、ばかぁ!?そんなわけないじゃん!byアスカ)
いやはや、この一言を聞いただけで鳥取まで来たかいがあるってもんですよ、実際。
最後は助言者で鳥取県のろう者福本さんのシメで終わったが、その中で印象に残った言葉、
「手話サークルは生きている。会員が増えたり減ったりするのもあたりまえ(会員の定着について)。それよりも問題なのは、サークルにろう者が来ているのに、健聴者から手話を習おうとする人が多すぎる。もういちど手話というものがなぜこの世に存在しているのか?ということを考えて欲しい」
う〜ん・・・・いい研修会だった。来年は岡山だ。
同13:00過ぎ
総会も無事に終わり、帰途につく。帰りは素直に53号線から津山に向かう。実際に53号線を通ってみると確かに山道だが、結構良い道だった。このあと14:00過ぎには津山のICから中国道に乗り一路宇部を目指してかえっていった。途中高速道路に飽きたので、徳山西ICで高速を降り、国道2号線を通って帰った。同21:00ジャスト、APに到着。今回の全日程を終えた。