第伍話:Bpart
正月だな。ああ、問題無い。
(作者注・{}は手話の会話)
大晦日・・・時間は夜の8時30分。短大の研究室ではレイと久保田先生が、教育省に提出する『介護福祉学部学生定員増にかかる私学助成金追加交付申請書』に添付する新たな教育カリキュラムと、それに伴う新任の教員・非常勤講師の履歴書の最終チェックをようやく終えて、レイのいれた紅茶で二人だけのささやかな打ち上げをしていた。
「綾波さん、本当にご苦労様。おかげでなんとか年内に資料を揃えることができたわ。」
「いえ、先生こそほんとうにおつかれさまでした。」
「ごめんなさいね。ほんとうならいまごろは第3新東京に帰っているはずなのに。」
「そんなことありません。それにわたし、この仕事が好きなんです。」
「ありがとう。そういってもらえると私も助かるわ。」
そういうと久保田先生はお茶請けの利休まんじゅうをひょいと一つ口の中に放り込んだ。
「ふぉれひょりもおひょうかふはひょうふるひょ?」
「はぁ?」
思わず聞き返すレイ。先生は慌てて紅茶でまんじゅうを流し込んだ。
「コホッ、ごめんなさい。お正月はどうするの?」
慌てたので少しむせながらもう一度レイに訊ねる。この先生、学務部長を任されているだけあって普段は颯爽とした人物ではあるのだが、ときどきこのような一面を見せる事がある。もっともそれが学生に人気のある理由の一つだ。レイはこの人が大好きだった。自分の仕事が面白いと感じるのもこの人と一緒に仕事が出来るからだと思っている。
「ええ、あしたは手話通訳の待機当番なので。」
「相変わらずがんばっているわねぇ。実はわたしもね、むかし手話の勉強をしようと思った事があったのよ。」
「え!?そうなんですか?」
「科目の中に『障害形態別介護』っていうのがあるでしょ。ほら、点字と手話のやつ。」
「ああ、なるほど・・・・・。」
「もともとわたしの専門は看護学でしょう。だから看護学校の教員からこの大学に移ってきた時に、手話とか点字をすこしだけかじったの。ホントにかじるだけだったんだけどね。」
そういってカラカラと笑う先生。
「だからあなたがやっていることは、できるだけ応援するわ。がんばってね!」
こういう上司はほんとうにありがたい。
「ありがとうございます、先生。」
「でも無理だけはしないでね。体を壊してしまったら元も子も無いんだから。あなたはこの大学にとって、もちろんわたしにとってもかけがえの無い人なのよ。」
「はい。(そう、この大学も先生も今のわたしには大切な絆だもの・・・)」
「それじゃあゆっくりできるのは2日からになるわね。あ、もしかしてマシュマロマンさんと初詣にでも行くのかなぁ?」
あの日以来、ことあるごとにこのネタでレイはひやかされっぱなしだった。
「い、いいえ。べ、べつに・・・そういう予定はまだ・・・・無いですけど・・・・・。」
「そぉ〜?、ねえ、綾波さんの彼氏ってどんな方なの?」
意外にも落ち着いた感じでレイは答えた。
「彼氏とか・・・・そういう感じじゃないんです。」
「あら、そうなの?」
たしかに彼は、世間一般に言うところの『彼氏』という定義にはまだ当てはまらないだろう。しかしあの日以来、レイの生活の中で少なからず彼の事がウエイトを占めるようになったのは事実だ。
「はい。でも人として、素敵な考え方の出来る人なんです。」
「じゃあ少なくとも好意は持ってるわけね。」
「・・・・はい。」
先生は大きくうなずくと、次の言葉をレイに贈った。
「大切にしなさい。今のその気持ちを・・・・。」
後日レイは、『その時の先生の目はとっても優しかった。』と語る事になる。
「さあ、あまりお話していたら年が明けちゃうわね。」
先生の言葉にレイはおもわず壁にかけられた時計に目をやった。
「いけない!もうこんな時間!」
そそくさとテーブルをかたずけ始めるレイ。二人だけの忘年会もお開きとなった。
研究室の戸締まりを確認して二人が建物を出たころは9時を少々まわっていた。テレビではもう紅白歌合戦も終わって知恩院の鐘が聞こえている頃だ。
「それじゃあ先生、今年もお世話になりました。よいお年をお迎えください。」
「ありがとう。あなたもいい年になるといいわね。お正月が明けたらすぐに一緒に第2東京に行ってもらう事になるけどよろしくね。そうだ、ついでに第3新東京に寄りましょう。冬月先生にもずいぶんご無沙汰しているからごあいさつもしたいし。ねっ!」
それは思いもかけない申し出だった。
確かにレイは第3新東京によって帰るつもりではあったが、そのことをなかなか久保田先生にに切り出せないでいた。もちろん資料作りに忙しくてとてもそれどころでは無かったこともあるし、レイだけ第3新東京に寄って帰っては久保田先生だけがこっちに帰ってくることになるのが申し訳ないと思っていたからだ。それだけにこの申し出はレイにとって大歓迎だった。でもひょっとすると先生ははじめからそのつもりだったのかもしれない。
「先生・・・・・」
久保田先生は軽くうなずくと、
「じゃあ、おやすみなさい。よいお年をね。」
「はい。」
レイは丁寧にお辞儀をして先生と別れた。
さすがに大晦日のこの時間には道路を走る車はほとんどいない。たまに交差点で横に並ぶ車を運転しているのは、明らかにこれから初詣に行くと思われるカップルぐらいのものだ。レイの運転する『初号機君』はSilverSkyStreetへとむかっていた。(ちなみにシンジの車を『初号機君』と呼ぶのはレイだけだ。)
車を駐車場において、商店街の中を一人歩いていく。
ついこのあいだまでクリスマスの喧騒に包まれていた街も、いまは去り行く年を静かに見送っていた。
「こんばんわ。」
「やあレイちゃん、待っていたよ。今年もお仕事ごくろうさまでした。」
Neonらいぶにやってきたレイをマスターが出迎えた。
レイはペコリとあいさつをした。
「マスターもごくろうさまでした。ってまだ仕事中でしたね。」
「まあ、この時期はかきいれ時だからね。といってもいまはまだ準備中なんだ。レイちゃんもゆっくりしていいよ。」
そういえばレイのほかにはお客がいない。
「店は12時に開けるんだ。初詣のお客に合わせてね。さあ、じゃあ年越しそばタイムといきますか。おーい、バイト君たちも集まれよー!」
テーブルの上には、『毛利屋謹製年越しそば』が鎮座していた。このそばは普段のものとちがって、つなぎに山芋を使っている。したがってふつうの二八そばに比べコシがつよい。ちなみにこのそばは、毛利屋にもだされない。いわば『らいぶスタッフ&常連さん限定品』なのだ。
もっともバイト君たちには空腹さえ満たされればOKらしく、ときどきマスターの『こら!おまえらもっと味わって食え!』などと怒声が飛び交っていた。
「ごちそうさまでした。」
箸を置いて合掌するレイ。
するとマスターが湯飲みをテーブルに置いてレイに話し掛けてきた。
「レイちゃん、ちょっと味見してもらいたいものがあるんだけどいいかな?」
「なんですか?」
「ちょっとまってて。」
そういってマスターがキッチンの奥から持ってきたのは、少し深めのカクテルグラスに幾層かにわかれたデザートのようなものだった。
「紅茶ゼリーなんだけどね。ちょっと食べてみてくれる?」
レイは出されたものをまずは観察した。
「これはね、まず底にあるのはアンニン豆腐なんだ。その上にあるのが紅茶ゼリー。トッピングは蜂蜜づけのグレープフルーツと生クリームなんだけどね。」
レイはマスターの説明を聞きながら、ひとつひとつ確認していく。
そしてスプーンを手に取った。
「じゃあいただきます。」
まず口の中に広がったのはグレープフルーツの酸味とわずかな苦み、それが生クリームと蜂蜜で優しく包み込まれている。ついで紅茶ゼリーのあっさり感と風味がアンニン豆腐の甘さと絶妙な関係を醸し出す。
「この紅茶ゼリーのベースは・・・・・・ハロッズの・・・・14番ですね。」
「さすが紅茶党のレイちゃん!するどいねぇ。オレンジペコでもいいんだけど、やっぱりハロッズの方がいいとおもうんだよね。」
コクコクとうなずくレイ。
「新しいメニューなんですか?」
「いいや、これは手間もコストも掛かるからね。パーティ予約の時だけ出すつもりなんだ。味、どうだった?」
「すごくおいしいです。気に入りました。」
新メニューには入らないと聞いて少し残念なレイだった。
「レイちゃんに太鼓判をもらえればだしてもOKだな。ありがとう。えーと・・・『ありがとう』の手話はこうだっけ?」
多少動作に問題はあったが、とりあえずはレイにお褒めの言葉をいただいて御満悦のマスターであった。
「それじゃあそろそろ帰ります。今日はごちそう様でした。おいくらですか?」
「きょうはお金は要らないよ。そばはもらいものだし、紅茶ゼリーも試作品だからね。」
「え?ほんとに?」
「ああ、だから来年もNeonらいぶをご贔屓にね。シンジ君たちが帰ってきたらまたおいで。さっきの紅茶ゼリーをつくってあげよう。」
「はい。それじゃあマスター、いいお年を。」
「レイちゃんもね!じゃあおやすみ。」
レイがマンションの自室のドアを開けると、いきなり電話の呼び出し音が耳に飛び込んできた。
慌てて部屋にかけ込むレイ。おかげでテーブルの角で少々お尻をぶつけてしまった。
「!痛っ!」
顔をしかめながら受話器をとる。
「(><)はい・・・・綾波です・・・」
『こんばんわ、手話会の佐藤です。』
電話の相手は泣く子も笑う佐藤通訳部長、その人であった。
『お正月なのに当番を引き受けてくれてありがとう。お仕事は終わったの?』
「はい。ちょうど今帰ってきたところです。」
『まあ!それはお疲れさま。遅くまで大変だったわね。』
「いえ、だいじょうぶです。」
『そう。それじゃあ今のうちに当番の引継ぎをしておくわね。』
「あ、ちょっと待って下さい。」
ぶつけたお尻をさするのを止めると、ボールペンとメモ紙をテーブルの上に用意した。
「お待たせしました。どうぞ。」
『まず待機時間の確認だけど、元旦の朝8時から2日の朝8時までの24時間。この時間内は自宅で待機して下さい。まあ通訳の依頼が入ることは滅多に無いと思うけどもしものことがあるからね。』
「はい。」
『だいたいはこのあいだ説明したとおりだから、そんなに気負わなくてもいいわ。もし何かあったら私に連絡してちょうだい。』
「はい、わかりました。」
『それから、もし事故や急病なんかのときには救急センターから連絡が入ることもあるから、通訳の依頼はFAXやメールだけとは限らないわ。ま、これはいまさら説明の必要も無いわね。それじゃあ、明日はがんばって下さい。いいお年をね。』
「はい、佐藤先生もいいお年を。」
カチャ・・・
受話器を戻したレイはそのままベッドにボフッと倒れ込んだ。余談だがお尻はもう痛くない(笑)。
『いいお年を・・・・・・・・・か』
『今日は何回言ったんだろう・・・・・・』
エヴァもゼーレも、そしてあの人類補完計画も無くなった時、リツコはレイを引き取った。
リツコ自身はその理由を誰にも言わないでいた。
ミサトが一度そのことをリツコに質問したことがある。その時のリツコの答えは、
『人の心がロジックじゃないってことが身に染みてわかったからよ。』
だった。
それからのレイはまるで生まれ変わったかのように表情の豊かな少女へと変わっていった。
アスカやヒカリに協力を求めたのもリツコだ。
それはいままでファーストチルドレンに過酷な運命を背負わせていたことへの謝罪の気持ちもあったのかもしれないし、同時にレイに普通の女の子として生きていってほしいとの願い(あるいは母親の気持ちにも似た)があったのかもしれない。
そのこともあって昨年までの大晦日は、レイは第3新東京の碇家でゲンドウ、リツコとともに過ごしてきた。だからこれまではリツコとゲンドウくらいしか『いいお年を』と言った覚えが無い。
ちなみにシンジとアスカは毎年葛城家(現・加持家)で新年を迎えるため、いまごろはリツコとゲンドウが二人で年越しそばをすすっていることだろう。
明日からは新しい年、でもレイには通訳の当番が待っている。お風呂から上がると、いつもは寝る前に読む本もそのままにしてベッドに潜り込んだ。
『アスカ、碇君。いいお年を・・・・・・・』
遠くに除夜の鐘が聞こえたような気がした・・・・・・・・・・・。
あとがき