エヴァ手話:学園パラレル編
Wishing well
始動編
今日から第一中学校では授業が始まる。校門をくぐる生徒達のかばんの中には、新しい
教科書が入っているはずだ。なかには学校の勉強とはおよそ関係の無い物を持ち込む不埒
な輩もいるのだろうが、まあよしとしておこう。
彼女の場合も、かばんの他にもうひとつ持ってきたものがある。
それは教室に生ける花だ。
別に彼女が花を持ってこなければいけない理由は無いのだが、それでも彼女は新学期に
は必ず自分の家から花を持ってきていた。
その女の子の名前は、洞木光という。
光は教室につくと、まずは自分の机にかばんを置いた。
ついで新聞紙に包んで持ってきた花束を抱えると、教室の隅においてある花瓶のところ
まで行き、昨日までは何も入っていなかったその花瓶をもって水を汲みに行こうとしたそ
の時、
「おっす、イインチョー。」
「あ、鈴原おはよう。」
朝錬を終えたばかりの統治が教室に戻ってきた。べつにバスケット部として朝の練習を
義務づけられているわけではないのだが、統治は去年の秋に第三中学との親善試合に負け
て以来、欠かさず毎朝ひとりで練習をしていた。その努力が認められて、顧問の加持から
今年のキャプテンに任命されたのだが、それはまた別のお話。
「イインチョーも相変わらずマメやな。また花持ってきたん?」
「それを言うなら鈴原だって同じじゃない。朝錬だったんでしょ?」
「ははっ。ま、これはわいが勝手にやっとることやし。それに、今年が最後やからな。き
っちり第三中にケジメつけたるねん。そのための朝錬や。」
「そうだったね。………ねえ、今度の試合には応援に行ってもいい?」
「ほんまか?いやあ、それやったらマジで負けられへんな!」
「うん……だからガンバッテネ…。オベントウツクッテイクカラ……」
「あ…。オオキニ…」
んがしかーし…
「とを!そにっくぐれいぶぅ!!」
がつん!!
「わたっ!!こりゃ!また綾波か?!」
いきなり統治の後頭部を、麗のチョップが襲った。
「へっへーんだ!朝からお熱いねえ、お二人さん。」
「こら麗!なにばかなこと言ってんの?!」
去年までならば真っ赤になって怒っていた光だが、どうもこの春休みの間に統治と何や
らあったらしい…。とは、友人の相田健介のマル秘レポートに書かれている。その証拠に
いまの麗に対する抗議には余裕が感じられた。ところが 一方の統治は、
「いいいイインチョー、わい花瓶に水汲んできたるわっ!」
と花瓶を抱えるや否やそそくさと教室を出ていった。
ふっ…。愛(う)い奴よのう……。
「いいよねー。光ちゃんと鈴原君は相思相愛でさぁ。」
麗はそのまま自分の席にちょこんと座り、頬杖をつくとニコニコ顔で光を見つめた。
「光ちゃんったら一年生の初めの頃は鈴原君のこと、恐い人だのなんだのって言っていた
くせにいつのまにか付き合ってるんだもんねぇ。あーあ、男と女の仲ってロジックじゃな
いわ…。」
「なにも赤木先生の真似をすることもないでしょう、麗。あなただって初めの頃は無口で
おとなしかったのに、なんでこんな子になっちゃったんでしょうね?」
と言いつつ、光は自分のおでこに手を当てて、やれやれと首を振る。
「あははは、ひっどーい!」
「うふふふ…」
「ねえ、鈴原君のどんなところに惚れちゃったわけ?」
「え?」
「あ、別に変な意味じゃないんだよ。わたしの書いている小説の参考になるかなって思っ
てさ。」
「ふーん………。知りたい?」
「うんうん!!」
麗はその赤い瞳をきらきらと輝かせ、ついでに両手を胸の前で握り締めながら光に詰め
寄ったが…。
「あのね………やっぱり言わないっ!!」
「えー?!なんでぇ?!」
とりあえず、教室の中は平和だった。
そのころ、慎二と明日香はそろって朝の通学路を走っていた。と、いってももはやこれ
は、このあたりでは休みの日以外にはおなじみの光景だ。
原因は慎二の朝寝坊にある。
もともと慎二は朝が弱い。小学校の頃は学校が近かったたし、なにより母親のゆい、お
隣の明日香にその母親の今日子までもが同じ小学校だったためまだよかったのだが、中学
生になって学校が今までとは反対の方向になってしまったのだ。
結果、明日香は毎朝碇家に寄って、小学校の時以上の迫力で慎二を叩き起こして学校へ
と通っている。
たったったったったったった………
「んもう!きのうは3年生になってすこしは早く起きれるようになったと思ったら、ぜん
っぜん変わってないじゃないの!!」
「うるさいなあ…。だからこうやって走ってるんじゃないか…。」
「なによそれ!理由になってないわよ!」
「ほれ、ぶつくさ言ってないで。急がないと遅刻だぞ。」
とたんに慎二はスピードをアップすると、明日香より先に駆け出した。
「あ゛っ!ちょっと待ちなさいってば!!このばかしんじーっ!」
『なによっ、きのうはちょっと見直してあげたのに…』
ぶぅっとほっぺを膨らませた明日香は、負けずにスピードを上げた。
『いままでは、あたしの方が前を走っていたのにな…』
「みさと〜。今日から授業が始るんでしょ。そろそろ出かけないと遅刻するわよー。」
美里の母親はいつまで経っても起きてこない娘(29歳:独身)のことを今日も心配し
つつ、朝ご飯の準備をしていた。どうせ美里のことだ。やがてバタバタとキッチンにやっ
てきて食パンを引っつかむや否やそれを咥えていくのは間違いない。そのつもりで準備を
していたのだが、今日はいつまでたっても美里の部屋の方からは物音一つしてこない。
不思議に思った彼女が、様子を見ようとして手にしていた包丁をまな板の上に置いた時
だった。
ち〜ん……
不意に居間の方から鐘の音が聞こえた。音からして仏壇の鐘だ。
そっと居間のふすまを開けて覗いてみると、すでに仕度を整えた美里が仏壇の前に座っ
ていた。美里はしばらくのあいだ仏壇の前で静かに目を瞑り合掌していたが、やがて目を
開けるとゆっくりと仏壇に語りかけた。
「おはよう、お父さん。きょうから授業が始るの。このあいだ話した、耳の不自由な子と
一緒の学校生活が始るわ。あまり自信無いけど、とりあえず自分の出来ることはやらなく
っちゃね。だから……、見守ってね…。」
母親は微笑むと、美里に気づかれないようにそっとキッチンに戻った。
時間に気がついた美里が、金切り声を上げながらキッチンに駆け込んで来たのはそのす
ぐ後だった。
「相田先輩、1年生のインタビュー、一人取り付けてきました。」
「そうか。よし、じゃあおまえに任せるから、記事にしておいてくれ。おれはもうすこし
写真を撮っておくから。」
「あいあいさー!!」
相田健介は新聞部の部員とともに朝から校門の前に陣取って、生徒の登校風景を写真に
撮り続けていた。新学期特集号の取材だ。今はまだ学校新聞しか出せないが、将来は社会
派のジャーナリストになることを目指している。愛用のオリンパスOM2000は、本物
の新聞記者である彼の父親が学生時代に使っていたものだ。新聞部の部長就任記念に譲り
受けたのだ。そんな中、カメラのファインダーに入ってきたのは、校門に止まった一台の
タクシー。
「あれ?あいつ、転校生じゃないか。」
健介はOM2000のファインダーから目を離すと、トレードマークの丸い眼鏡を掛け
直した。タクシーの中から出て来たのは、昨日クラス担任の葛城美里がみんなに紹介した
難波浩一郎少年だ。
「なんとまあ、タクシー通学とはねえ………。」
すぐに健介は昨日のことを思い出した。
『どうしよう…?慎二たちはまだ来ていないみたいだけど……。』
昨日、麗のうちで友達になるきっかけは慎二と明日香が作ろうと決めたところだ。だが、
美里に友達になってあげるように頼まれたのは、自分も同じだ。
「ま、いいか……。」
タクシーが走り去り、学校の中に入ってくる浩一郎に向かって健介は歩き出した。
「よう、おはようさん。」
彼の耳が不自由なことを考慮して、多少オーバーアクションだったかもしれないが、健
介は右手を大きく振って彼の前に現れた。
一瞬、浩一郎は身構えたように見えた。
「おれ、あいだけんすけ。おまえとおなじ3ねんAくみだ。いってること、わかるか?」
以前何かの本で読んだことがある。「耳の不自由な人は、相手の口の動きを読み取って
会話をする」らしい。また健介自身、美里から浩一郎のことを頼まれた一人だったし、な
んといってもこれから一年間は同じクラスでいるのだから、たとえ今、慎二たちがいなく
ても彼に声をかけるのは別におかしいことではない。
浩一郎は健介の口元を凝視している。
彼は先ほどからそのままの状態だ。
『どうなんだよ……。伝わったのかな……?』
様子の変わらない浩一郎に、健介もだんだん不安になってきた。
『無視……、されてるわけじゃないよな……。』
すると浩一郎はふいに顔を上げた。
『お……。』
しかし健介が彼の返事を期待したのとは裏腹に、浩一郎はぺこりと頭を下げると、その
まま黙って校舎の方へと向かって歩き出した。
「ちょ、ちょっと待てよ!……おい難波!!」
あわてて健介は浩一郎の背中から声をかけたが、耳の不自由な彼には聞こえるはずもな
く、そのまま校舎の中へと消えていった。
『なんだかなぁ……………』
あとには困惑顔の健介だけが取り残された。
教室には次々と生徒達が登校してきて、いまは授業前の喧騒の中だ。特に3年生という
ことを意識しているわけではないのだろうが、それでも昨年までとは少々雰囲気が違って
いるように感じられる。やはり中学校最後の一年間というものがそうさせているのかもし
れない。
統治はすでに自分の席に着いて、つかの間の睡眠を楽しんでいた。やはり早朝から練習
をしていたのが原因なのだろう。麗と光もそれぞれ席に着いている。ちなみに麗は自分の
ノートを取り出して、執筆中の小説の構想を練っていた。
彼が教室に入って来たことには誰も気がつかなかった。いや、いくらなんでもそのよう
なことは無いはずなのだが……。少なくとも、昨日転校して来たばかりの少年を迎えるよ
うな雰囲気は、今のこの3−Aには見受けられない
そんな中、一生懸命ノートに書き込みをしていた麗が、ふと顔を上げた時にはすでに浩
一郎は自分の席に座っていた。
『あ、難波君だ!!いつ来たのかな………』
「ねえねえ、光ちゃん。」
くいくいっ
麗は自分の前の席に座って本を読んでいた光のおさげ髪を後ろから引っ張った。
「痛っ!なによ麗?」
「ほら、あそこ。難波君が来てる。」
「あ、ほんとだ。気がつかなかったわ……。明日香たち、まだ来ていないわね…。」
光はざっと教室の中を見渡したが、教室の中は先ほどと変わりない。統治もいびきをか
いている。そして教壇の前の席では、かばんから教科書を取り出した浩一郎が、一人静か
にそれを読んでいるだけだ。見方を変えると、わいわいとやかましい教室の中では、浩一
郎の席のところだけ別の空間のようにも思える。
「声、かけてみようか……?」
ふいに麗がつぶやいた。
「え?」
一瞬、光は戸惑ったが、
「そうよね……。べつに明日香たちが彼に声かけるまで、わたしたちが待ってなきゃいけ
ないってわけじゃないもんね……。」
二人は顔を見合わせると、同時に肯いた。
「じゃあ光ちゃんがオフェンスでわたしがディフェンス。鈴原君は寝ているから、バック
アップでいくねっ!!」
「うん!……ちょっと、麗。」
「なーに?」
「………『おふぇんす』ってことは、わたしに行けってこと?」
「………あはは……てへ。」
統治は夢の中だった…。
健介が一応の取材を終えてカメラや器材を片づけているところに、校門から走り込んで
来た慎二と明日香がやってきた。いまだ予鈴は鳴っていないので、とりあえず遅刻は免れ
たようだ。
「おはよ、健介。なにやってんだ?」
いつものあいさつのつもりで健介に声をかけた慎二だが、当の健介はリアクションがい
つもと少々違っていた。
「ったく……。なにやってんだ?じゃないぜ。」
ため息とともに恨めしそうに自分達を見つめる健介に、慎二はちょいと驚いた。明日香
もその横で怪訝そうな顔をしている。
「な、なんだよぉ…。」
「……まあ、おまえらに恨みごとを言ってもしかたないけどさ。」
「なによ恨みごとって?はっきり言いなさいよ。」
少なくとも明日香は健介に恨まれるような覚えはないのだが…。
健介はそんな明日香はほっといて話を進めた。
「今朝はここで新学期特集号の取材をしてたんだ。そしたらさっき、一台のタクシーが校
門に横付けになったと思いねえ…。」
「それで???」
健介の言い方に、明日香は続きを催促する。
「そのタクシーから出て来たのは、例の転校生って寸法さ。」
「ええっ?!タクシーで登校して来たの?!」
さすがにこの事には明日香も驚いたようだが、慎二の考えはチョットばかりズレていた。
「家が遠いのかな?」
思わず明日香はこめかみを押さえてうずくまりそうになったが、なんとか気力でもちこ
たえた。いまだ明日香にばか慎二呼ばわりされるのは、このあたりに原因がある。健介も
ずっこけた拍子に落としそうになった眼鏡を掛け直すと続きを話し出した。
「ま、まあそうかもしれんがだ…。とりあえず心やさしいこの相田健介さんは、転校して
来たばかりのクラスメートに朝のあいさつでもしてやろうと思ってさ…。」
「「ふんふん。」」
「ところがさ……………ってわけ。」
「「ふぅ〜」」
健介の話を聞き終えた慎二と明日香はそろってため息を吐いた。この様子だと、浩一郎
と友達になるには一筋縄ではいかないかもしれない。
「ま、一生懸命俺の口の動きを読み取ろうとしていたみたいだから、無視されたわけじゃ
ないんだろうけど…。なんかしっくりこないんだよな…。」
そして健介はカメラをしまうと、両手で『お手上げ』の仕種をした。
なんだか前途多難の予感である。
「慎二ぃ……」
「ふぅ…。とにかく、ここで悩んでも仕方ないよ。とりあえず教室に行こう。」
慎二が心配そうに自分を見つめている明日香にそう言い、やりきれない顔の健介を促し
て教室に向かおうとした時、美里の青いA310がスキール音とともに校門から入って来
た。
「ねー、光ちゃん。どーするのよぉ…。」
「どおって……。初めに言い出したのは麗じゃないの…。」
「そーだけどさー…。」
結局ふたりは先ほどから、あーだのこーだの言いながら自分達の机からは動いていなか
った。浩一郎が読んでいるのは、1時間目の国語の教科書だ。まるで今からテストを控え、
最後の追い込みをかけるような感じで読みふけっていた。
「それにしても彼ってさ、なんだか教科書読むのにえらくチカラ入ってない?」
その光景には麗がまず気づいた。
「そうかなあ…。」
光はあらためて彼を見つめた。
『う〜ん…。確かに一生懸命読んでるみたいだけど…。ガリ勉ってわけでもないみたいだ
し…。それにしても他の人達は彼のことをどう見てるのかしら……。』
光はむしろそのことの方が気になってきた。
当の浩一郎はそんな麗たちのことなどまったく気づかないでいる。いや、この場合、彼
のまわりの空気自体が異質な感じさえする。
それは彼が転校生だからなのだろうか?
なんとなく、なぜ昨日美里がわざわざ自分達を放課後に残してまで彼のことを頼んだの
か、解ったような気がした。
そんななか、教室のドアが勢いよく開けられた。
がらあ!
「みんな、おはよー。」
「おはよう、みんな。」
「うーす。」
「おー、惣流、碇、相田。」
「明日香おはよー。」
三者三様のあいさつで明日香、慎二、そして健介が入って来た。やはり最初に声がかか
るのは彼らと同じ組だった連中だ。そこに教室の奥から麗が駆け寄ってきた。
「おはよー碇君!待ってたんだからぁ〜。」
「お、おい綾波!急に引っ張るなよ!」
麗はいきなり慎二の腕を取ると、どたどたと机のところまで引っ張って行く。そして慎
二のかばんをひったくると机の上に置き、にっこりと微笑んだ。
「ほらっ!もう難波君来てるんだよ!」
あっけに取られたのは光である。さきほどまで、二人で悩んでいたのは何だったのだろ
う?
麗はまるで機関銃のように先ほどまでのこと、つまり浩一郎がいつのまにか教室に入っ
てきていたこと、席に着いてからはずっと教科書を読んでいること、自分と光がどうやっ
て話しかけようかと迷っていたことなどをまくしたてている。
そんな麗のことを、明日香はただじっと見つめていた。
明日香の様子には、光がすぐに気がついた。やはり小学校から一緒の仲だ。
「明日香?ねえ明日香ってば。」
「……え?なに?」
一瞬遅れて明日香は光の方に顔を向けた。
「……明日香。最近、なにか悩んでない?」
「……別に。……そんなことないよ……。」
「……ほんと?」
「うん。……もう大丈夫だから。」
「……そう。」
そうして明日香は、慎二と麗が話している、というよりも麗がほとんど一方的にまくし
たてている光景に視線を戻した。そんな明日香を見て光は、
『もう大丈夫ってことは、大丈夫じゃない時があったってことじゃないの……』
明日香には聞こえないようにそっとつぶやいた。
同時刻。
「おそいわよ美里。」
葛城美里の職場での朝は、同僚にして学生時代からのクサレ縁、赤木律子のこの言葉で
始った。律子は机の上のノートパソコンから、今年度の担当クラスの生徒のデータを検索
しながらも、こっそりと職員室の中に入って来た美里を発見したのだ。もっともそれは、
今日に始ったことではない。
「あちゃあ…。やっぱ律子に見つかったかぁ…」
とは言いながら、別段に悪びれる風でもなく、美里は律子の隣席の自分のデスクについ
た。ちなみに美里の前の席は、やはりクサレ縁のひとり、社会科の加持亮二である。
「まあ、そう言いなさんな、律ちゃん。どうせ葛城のことだ。親父さんと話していて遅れ
たんだろ?」
「ふんっ。どうせわたしはファザコンよっ!」
無造作に目の前のブックエンドから教材を取り出しながら、美里も一応は反撃をしてお
く。第一中学校職員室では、毎度おなじみのお約束の光景だ。まわりの日向や青葉といっ
た若い教師連中は、『やれやれ……』といった感じで自分の仕事に没頭していた。
すると、
「葛城くん、それから3年生の担当の先生方、ちょっとよろしいかな?」
その声に振り返ると、いつのまにか美里の後ろに立っていたのは、
「あ、冬月校長。おはようございます。」
第一中学校校長、冬月孝三55歳。ロマンスグレーの紳士にして、慎二の両親の恩師でも
ある。
冬月は軽く肯いて話を始めた。
「いよいよ今日から授業が始るわけだが、葛城くんのクラスの難波浩一郎くんのことはよ
ろしくお願いします。学年は3年生だが、彼のことはこの第一中学の全教師が責任を持っ
て預かるつもりだ。なかでもみなさんには今年一年間、いろいろとご尽力を願うことにな
ります。わたしなどはそれに頼るしかないのだが、時田教頭とも、できる限りのサポート
をさせてもらいます。」
すると律子は美里に右手の親指を立てて合図し、加持は前世紀的ではあったがVサイン
を送った。また、その他の教師も、それぞれ同様のことをして美里への助力を示した。
「みなさん、ありがとうございます。わたしも不安がないと言えば嘘になりますが、皆さ
んのお力を借りながら、難波君がこの第一中学校での1年間の生活を安心して過ごせるよ
う努力していくつもりです。どうか、よろしくお願いします。」
美里は立ち上がってそう言うと、深々と頭を下げた。
もどって3−Aの教室。
「……………それでね、わたしと光ちゃんで難波君に声をかけてみようかなって言ってた
んだけどさあ、かけられないでいたの。それで碇君達が来るのをずぅっと待ってたんだよ。
なのに、なかなか来ないんだもの。」
「立て板に水」という表現がぴったりとあてはまる。とにかく麗は一気に捲し立てた。
慎二は、しばらく黙って麗の話を聞いていたが、
「そっか…。綾波たちもいろいろと考えてくれてたんだ。健介もさっき校門のところで彼
にあいさつしたんだってさ。な、健介。」
振り返った慎二の目に先ず映ったのは、きょとんとした顔の健介。
「あ?ああ…。だけど慎二、さっきは……」
「うん。わかってる。」
そして再び慎二は麗のほうを向き、にっこり微笑むと右手をぐっと伸ばし、麗の頭をく
しゃくしゃっとさすった。
「あ……」
「ありがと、綾波。」
「……うん……。」
割と小柄な麗は、慎二に頭をさすられて恥ずかしそうに俯いた。
一方明日香は、麗が慎二を引っ張っていったおかげで置いてきぼりを食らったような格
好になった。
明日香はさきほどから、麗と慎二のやり取りをじっと見つめていた。
麗の気持ちに気がついたのは、2年生の初めの頃……
その兆候は、1年生の終わりごろにはあったと思う……
だって、あんなに無口だったのにさ……。慎二の前では少しづつ話をするようになっ
たんだもん
たぶん慎二は気がついていない
ばか慎二だから……
悪いことじゃないと思う……
でも、なんかヤダ……
なんでこんな気持ちになるの?
やだな……こういうの……
どうしろっていうのよ、ばか慎二……
昨日の夜、晩御飯のあとで慎二の部屋に呼ばれた。
どうなるかと思ったけど、意外にもでてきた話題はそっけなかった。
『明日はがんばろー』とか、
『明日香、手話ってわかる?』とか、
『筆談って、大変そうだね』とか、
慎二の口から出たのは、そんなことばっかり。
碇のおじさまに呼ばれたって嘘ついたのがばれたと思ってた。
なんでそんなこと言ったか、慎二は知らないだろうな。
だってさ、麗の家から帰って、誰もいない自分の部屋の中にいたら、なんだか心細くな
っちゃったんだもの。
ばかみたいよね、中学三年生にもなってさ……。
幸い、昨日は慎二の家で晩御飯を食べることになっていたから、すぐにあたしはお隣の
慎二の家に行った。10年来のお隣さん。慎二のお父さんの弦道おじさまも、お母さんの
ゆいおばさまもあたしの家族とはツーカーの間柄。
おじさまは晩御飯の準備の真っ最中だった。
あたしはおじさまに挨拶すると、慎二の部屋に入った。
そうしたらあのばか慎二!幸福そうにベッドで寝てるじゃない!
まったく!幼なじみのこのあたしが、こーんなに悩んでるってーのに!
でもさ、慎二の寝顔ってけっこうカワイイのよ。あの髭ズラのおじさまの息子とは思え
ないくらい。慎二っておばさまに似たのかな?
毎朝見てるんだけど、飽きないのよねー……。(ホントハ、トキドキツンツンシテアソ
ンデルノ…)
そういえば、この春休みはほとんど慎二と会ってなかったな……。
光のコトで忙しかったし……。
しっかし、あんの熱血バカのドコが良いのよ?
んじゃなくてぇ!
ふと顔を上げると、まだ慎二は麗となにか話している。明日香は二人をじっと見据えた。
えーい!やめやめ!なんであたしがばか慎二ごときのことで悩まなくっちゃならないの
よ!だいたい最近あいつ、生意気よね!昨日だってさ、……。ま、まあ昨日のことはあた
しにも原因があるんだけど……。いまはそっちのほうが先決よね。
どっちにしてもこのままじゃあ、この惣流明日香さんの沽券にもかかわるってやつよ。
みてなさい、麗!
どうも問題を混同しているきらいが無いでもないような気もするが、とりあえず、明日
香は自己完結することに成功した。
どすどすどす!という効果音が聞こえてきそうなくらいの勢いで、明日香は慎二に近寄
っていく。まずは自分のかばんを机にばんっと置いた。
ばんっ!
ついでいきなり慎二の腕を取った。
「ほらっ!あんたがぼけぼけっとしてるから、みんなに先を越されちゃったじゃない!あ
たしたちもいくわよ!」
「え?うわっ!」
「あ、ちょっと碇君……。」
こんどは慎二は明日香に引きずられる形になった。腰を折られた麗とあっけに取られた
光は、呆然と二人を見送った。
浩一郎はいまだ教科書から目を離さない。しかし確実に彼の側にその地響きは近づいて
いた。
ずんずん
ずんずん!
ぴたっ
明日香は慎二を浩一郎の席の前まで引っ張って来た。ちょうど、教壇と机の間だ。
さすがに明日香の迫力が伝わったのか、いままでずっと教科書を読んでいた浩一郎が、
不意に顔を上げた。
「?!」
彼の目に映ったのは、見覚えのある顔。昨日の朝、職員室の前でハデにずっこけた女の
子と、たしかそのときに一緒にいた男の子だ。
そういえば、先生に連れられてこのクラスにやって来た時も、なんだかいきなりこの二
人が立ち上がっていた。なにか言っていたような気もするが、はっきりとは聞き取れなか
った。
その二人がまたまた自分の目の前にやってきて、女の子のほうはなんだか肩で息をして
いるようにも見える。なんだかちょっと恐い。
少々不安な表情を見せながらも、とりあえず浩一郎が教科書を閉じて机の上に置いた時、
まず慎二が動いた。
「やあ。」
にっこり笑った慎二は、軽く右手を上げる。そして、
「え、と、ぼくのいうことがわかるかな?」
『さっき健介は、難波君が口の動きを読み取ろうとしたみたいだったって言ってたけど、
どうなんだろう?やっぱり無理なのかな……?』
すると浩一郎は、机の中から一冊のノートを取り出した。
いぶかしがる慎二には気をとめず、シャープペンを手にするとおもむろに字を書き始め
た。
さらさらさらさらさら………
『なにか用?できたら手短にして』
つづく
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大変長くお待たせしたうえに、またまた妙な形でヒキが入ってしまいました。
でも、今回の設定が一番難しい事だったので、つづきはそんなにお待たせしないと思いま
す(いいのか、そんな事言って>おれ)
メール
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