Wishing well:
intermission
住宅地の一角にある喫茶店。
店の名前は、Fly me to the Moon。
クラシックのBGMの中、朝8時の開店と同時に、ひとりの男性が入ってきた。
からんからん……
「おや、弦さん。いらっしゃい。」
マスターの勉がカウンターから顔をのぞかせた先には、長身でアゴヒゲ付き、おまけに
サングラスをかけた怪しい中年の男性が立っていた。洗いざらしのジーンズにコットンの
シャツ。本人は『とらでぃしょなる』なつもりらしい。手にはなんだか難しそうな歴史の
本を抱えている。
やはり異様だ。しかしこの男性のことをカワイイと言ってのける女性がいるというのだ
から世の中わからないものである。その男の名は、碇弦道。
「おはよう勉ちゃん。ひさしぶりにここのコーヒーが飲みたくなってな。」
そういいながら、彼はカウンターの一番奥の席にゆっくりと腰をかけた。
「ときに、奥さんの具合はどうだ?」
「ええ、おかげさんで。ここのところずいぶん調子良いみたいですよ。気候も暖かくなっ
てきましたしね。」
差し出されたおしぼりで手をぬぐいながら、弦道は、
「そうか。ならば問題ない。それより、きのうもうちの慎二たちがこの店でなにやらやっ
ていたようだが、迷惑な時は遠慮なく叱ってやってくれ。」
そうしてお冷やを一口飲んだ。
カウンターに置いたグラスの氷がカランと音を立てる。
「そんなことありませんよ弦さん。それに、きのうはなんだか難しそうな話をしていたみ
たいですよ。」
「ほう……。」
「わたしもくわしくは知らないんですが、なんでも連中のクラスに耳の不自由な男の子が
転校してきたみたいなんです。それで葛城先生から友達になってあげるようにあの子達が
頼まれたみたいですよ。」
「そうか…。慎二のやつ、夕べはそんなことなど一言もいわなかったが…。そういえば、
明日香ちゃんもきのうはなんだか様子がおかしかったようだ……。」
「明日香ちゃんが……ですか?。」
「しかし今朝は、いつものようにうちの慎二を叩き起こしに来ていたからな。心配はある
まい。」
「あはは。それなら大丈夫でしょう。」
「ふむ。」
マスターは再びコーヒーポットへと視線を戻した。
カップの中にゆっくりとモカが注ぎ込まれていく。
「はい。おまたせしました。」
「うむ。………いい香だ…。」
ひとしきり、モカの香りを楽しんだ後、弦道はゆっくりとコーヒーを喉に流し込んだ。
そのうち、この店のモーニング目当てのお客が三々五々やってきた。そうなってくると、
勉も弦道の相手をする暇がなくなってくる。
「弦さん、ゆっくりしていってくださいね。」
「ああ、問題ない。」
一言、弦道にことわった勉はやってきたお客たちの注文を取るためにカウンターを離れ
ていった。
弦道もそんなことは気にすることもなく、もちこんだ歴史の本を読みながら『真日本史
補完計画』を練っていた。弦道がいま執筆しているのは、保元・平治の乱から鎌倉幕府の
成立にかけてだが、この『真日本史補完計画』は、既存の歴史概念の裏を探るのが目的だ。
弦道に言わせると、
『歴史書に書いてあることが、すべて正史などと誰が決めたのだ。所詮その時の為政者の
言い訳に過ぎん。その裏側にこそ、真の歴史がある。そのための補完計画だ。』
だそうだ。先日もあるTV番組で、一悶着あった。それはトーク番組だったのだが、司会
者が聞きかじっただけの知識をひけらかし、弦道の書いた書物をネチネチと批判した。そ
のあいだ弦道は、司会者の横でずっと黙ったままテーブルの上にひじを突き、手は顔の前
で組んだままのポーズだった。そして最後に一言、先ほどの言葉を吐き、
『あなたの戯れ言に付き合っている暇はない。もう、お会いすることもないでしょう。』
と一人席を立ってしまった。ただしその番組は、以前から権威べったりの司会者の評判が
悪く、TV局に寄せられたのも苦情の電話以上に『胸がすっとした』だの『よく言ってく
れた』といった賞賛の声が多かったそうだ。もっとも弦道の妻のゆいに言わせると、『ま
るで子供のけんかね。』ということになる。もちろん、あとからゆいにこっぴどく怒られ
たのは言うまでもない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
弦道が初めてこの店を訪れたのは、おととしの春頃だ。
趣味の料理に使う材料を買い出しに外出した時に、ふと目にとまった一件の喫茶店。い
ままでこのあたりに来たことはまれだったが、もともとコーヒー好きなこともあり、弦道
はそのまま店に入っていった。新興都市の第三新東京市にはめずらしく、木目を基調とし
た落ち着いた作りの店内。静かにBGMがかかっている。決して広い店ではないが、訪れ
た客がほっとするような、やさしい空間を作り出している。
「いらっしゃいませ。」
カウンターに座った弦道の前に、この店のマスターが現れた。年格好は自分と同じくら
いだろう。お客に見せる笑顔もとても自然だ。
「モカをもらおうか。」
「かしこまりました。」
注文を受けたマスターは、後ろの棚から容器を取り出すと、カウンターの前にあるサイ
フォンに火を入れた。
『ふむ…。良い手つきだ……。』
マスターの一連の作業を眺めていた弦道は、その中に少しも無駄がないことを認めた。
やがて彼の前にカップが差し出された。
「どうぞ。モカでございます。」
「うむ。」
カップを手にして先ずはその香りを確かめる。そこからは豆の保管からコーヒーの煎れ
方までマスターの真摯な仕事の様子がうかがえた。
「……うむ。うまい。」
おもわずそんな言葉が出てくる。彼にしては珍しいことだ。
「お気に召しましたでしょうか?」
「ああ。おいしいコーヒーだ。ありがとう。」
「これはこれは。お客様に御礼を言われたのは初めてですよ。こちらこそ、ありがとうご
ざいます。」
「そんなことはない。うまいからそう言ったまでだ。まずいコーヒーだったら、すでにわ
たしは椅子を蹴ってこの店を出ている。もっとも、コーヒーの代金は置いていくがな。」
「はあ?」
真顔でそんなことを言ってのける弦道に、マスターも思わず間の抜けた返事を返してし
まう。
一瞬の後、カウンターを挟んで二人は大笑いをした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
平日の午後、お客は弦道のほかには誰もいない。今はランチタイムの賑わいもなく、モ
ーニングサービスの忙しさもない。マスターはやがて自分専用のカップにブレンドコーヒ
ーを注ぎ、弦道にも新しいカップに注いだ同じコーヒーをだした。
「どうぞ。これはわたしからのサービスです。」
「いいのかね?わたしは通りがかりの一見の客だぞ。」
「ええ。でも、なんだか今日はおごりたい気分なんです。」
「………そうかね。では遠慮なくいただこう。」
そして二人はまるで乾杯でもするように、お互いに軽くカップを持ち上げるとブレンド
コーヒーを流し込んだ。
ちいさな音とともにカップがソーサーに戻っていく。
すると、
「マスターは、いつからこの店を?」
と弦道が聞いた。
「………開店したのは、ちょうど半年前です。それまでは隣町にいましたから。」
同じようにマスターが答える。
「そうかね。わたしもあまりこちらの方まで来ることはないのだが、いままで気がつかな
かったよ。」
するとこんどはマスターが、弦道が提げてきた買い物袋に気がついた。
「お客さんはお買い物の途中だったんですか?」
「む。いや、これは…、その、なんだ…。」
別に恥ずかしがることもないのだが、なんとなく弦道は言葉を濁してしまった。
「まあ、普段は家内が料理をするのだがな。これはわたしの趣味みたいなものだ。」
「ほう……。料理が御趣味なんですか?」
「実はわたしはヒモでな。家内を外で働かせて、自分は勝手気ままなことをやっている。」
そう言った弦道は、わずかに口元を歪めニヤリと笑った。
確かにその表情は、『ヒモ』と言われても違和感がない。
『ううっ。この人、本当はギョーカイの人なんじゃないだろーか?』
一瞬、ヒイてしまったマスターだった。
そんなとき、ふいに……
からんからん……
さきほどよりも少し大きな音でドアベルが鳴り響いた。
つづいて、
「ごめんください!」
声と共に中に入って来たのは、背の高い西洋人の男性。彫りの深い顔はゲルマン人のそ
れをほうふつとさせる。精悍な中にも優しさを感じさせるブルーの瞳、きっちりと整髪さ
れた金髪、びしっと決めたスーツ姿に足の長さはもちろん日本人の比ではない。のだが…、
「なんだ、ゲンじゃないか。なにやってんだ?」
男はそう言いながら、弦道の側に座ったのは良いが、
しゃべりは思いっきり『じゃぱにーず』だった。
「ふん。なにやってるだと?野球をやっているように見えるか?」
「……おもしろくねえぞ、それ。」
「……わるかったな。きさまこそ、こんな時間に何してる?コーヒーを飲む暇があったら
もう2
,3軒得意先を回ってきたらどうだ。」「あいにくだったな。もう午前中に1件まとめて来たところだ。次のところに行くのには
まだ時間があるんでな、美味いコーヒーが飲めると聞いたこの店にやって来たのさ。」
「そうか。……ここの店は当たりだぞ。」
「ほう…。おまえが言うんだったら間違いあるまい。」
しばらくは、洗ったカップを拭いていたマスターだったが、
「お二人はお友達なんですか?」
と、カウンターの二人に尋ねた。
実を言うと弦道と仲の良いこの男のことを、マフィアか何かの用心棒だと思っていたの
はナイショだ。
答えたのは弦道だった。
「ああ、この男はうちの隣に住んでいてな。ドイツ人のくせにわたしと同じコーヒー好き
だ。」
「おいおい、なんでそこでドイツが出てくるんだよ。……そんなわけでマスター、ブレン
ドを…。」
「……あ、はい。かしこまりました。」
しばらくのあいだ、二人の会話を聞くとはなしに聞いていたマスターは、我に返るとい
そいそと注文のブレンドコーヒーを準備し始めた。再び店内にはかぐわしいコーヒーの香
りが広がってゆく。
「うん…。良い香りだ。ゲンの言うとおりだな。」
「あわてるな。感想は飲んでから言うものだ。」
『ま、ちょっと変わった雰囲気の人たちだけど、悪い人じゃなさそうだし………』
いつのまにかマスターは、そんな気もちになっていた。やがて、ブレンドコーヒーが出
来上がる。暖めておいたカップに静かに注ぎ込まれる褐色の液体。ほのかに立ち上る軟ら
かな湯気。そしてソーサに乗せられたそれは、カウンターへと出された。
「どうぞ、ブレンドでございます。」
「お、きたきた!……………おう!絶品だな!」
ひとくちコーヒーを飲むなり、感嘆符を出しまくる謎のドイツ人。
「ありがとうございます。」
マスターもにっこりと笑顔を返したとき、
からんからん……
入り口のドアベルが鳴った。そして、
「…………ただいま。」
と、ちいさな声。
そして、入り口のパーテーションの陰から、空色の髪の女の子がちょこんと顔を出した。
瞳の色はルビーのように赤い。肌の色も色白というにはあまりにも白すぎる。
『アルビノか…』
と弦道が思った時、マスターがそのこどもに微笑んだ。
「ああ、おかえり麗。お客さんにごあいさつしなさい。」
するとその女の子は、あわててカウンターの前に立ち、
「いらっしゃいませ。」
と、ぺこりとあいさつをした。
まだ慣れていないのか、唇をきゅっとかんで、小さな手はぎゅっと握り締められている。
『ん?この制服は……』
弦道たちは、この少女が来ている学校の制服が、見慣れたものであることに気がついた。
そのとき、
「あのね、おとーさん。……お友達ができたの……。」
小さな声だったが、はっきりと彼女は父親に告げた。
「え!?お友達!?……そうか、もう友達ができたのか!?」
「うん………。」
恥ずかしそうにコクリと肯いた娘の頭を、マスターは優しくなでてやった。
「よかったな、麗。さあ、それじゃあ着替えてきなさい。」
「はい。」
女の子はもう一度ぺこりとお辞儀をすると、店の奥の階段から二階へと上がっていった。
「かわいい娘さんだ。」
カウンターの弦道が、女の子の去っていった方を見ながらつぶやいた。
同時にもう一人の男も、
「なかなかキュートなフロイラインだな。」
どうやら同意見らしい。
「………ありがとうございます。」
コトン…、とお冷やのおかわりをカウンターに出しながら、マスターが言った。
「………この店は、あの子のために開いたようなものなんです。」
そうしてマスターは静かに自分の身の上を語り出した。
彼はかつてはバリバリの企業戦士だった。結婚後もうちに帰るのはいつも夜遅く、彼の
妻も家で顔を合わせることはまれだったくらいだ。
ところが麗が生まれた時、妻の産後の日だちが悪く健康を害してしまった。おまけに生
まれた麗も虚弱体質で、幼い時から医療施設と家をいったりきたりの生活だった。そして
小学校もふつうの学校には入学できず、養護学校へと入学することになった。
しかし、そのうち麗もだんだん抵抗力が備わり、6年生の時には激しい運動はできない
が、それ以外のことであればふつうの学校に通っても差し支えない、との判断が下された。
そこで彼は一念発起し、いままで勤めていた会社をすっぱりと辞めて、いまのこの地に喫
茶店を開いた。これならば、いつでも病弱な妻のそばにいてやれるし、娘が学校から帰っ
てきても自分がうちにいることができるからである。事実、店の2階が居住スペースにな
っているのだ。ちなみに『Fly me to the Moon』は妻が考えた名前だ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
弦道はその間、カウンターにひじを突き、顔の前で手を組んだまま静かにマスターの話
を聞いていた。やがて、
「すみません。つまらない話をお聞かせしてしまいました…。」
話を終えたマスターが、幾分自嘲気味に謝った。
弦道達はマスターの話が終わってもしばらくは黙ったままだったが、
「いや、そんなことはない。よくそこまで思い切ったものだ。到底わたしなどには真似で
きんよ。」
「そうだな…。ゲンのいうとおりだ。おれもサラリーマンだが、もしマスターと同じこと
になったら、狼狽するだけだ。」
二人はそろって首肯した。
すると、
「……あの子の髪の毛と瞳の色、ご覧になったでしょう。あの子はこれから先、ずっとそ
れを背負っていかなくてはならない。いままではともかく、これからはたくさんの人たち
と出会っていきます。その中には心無い人たちもいるでしょう。だからせめてあの子が独
り立ちできるまでは、帰れる場所を作っておいてやろうと思いましてね。それでこの店を
始めたんですが…。でもよかった。中学校に入学してまだひと月も経たないのにもう友達
ができたなんて…。案外、親が思っている以上にこどもは強いのかもしれませんね。」
弦道は静かに答える。
「ふむ。確かにな。だが、やはりこどもはこどもだ。いざという時には、やはり親がしゃ
しゃり出ることが必要な時もある。」
「そうですね。でも、どんな友達なのかなぁ…。なんか、こっちがわくわくしますよ。」
マスターはまるで自分のことのように楽しそうな顔をしている。先ほどの言葉にあるよ
うに、彼には娘の学校での生活がもっとも気がかりなことだったからだ。
もう一人の男はそんなマスターと弦道をしばらく見つめていたが、ふと思い出したよう
に、
「麗ちゃん……だったかな。第一中学の生徒なのかい?」
「ええ。そうですが……。」
すると弦道も、
「なにを言っているんだ、ルディ。このあたりも第一中学の校区だぞ。」
「おりょ?そっか。そりゃ知らなかった。」
ブルーの瞳を真ん丸にして、おどけたカンジのルディは、先ほどまでの雰囲気とは全く
違うまるでいたずら小僧のようだ。
「まったくよくそれでサラリーマンが勤まるな。」
「なにを言う。これでも子供の頃は、『天使のように聡明なルディ坊や』と言われていた
んだぞ。」
「どこのどいつだ。そんな冗談を言ったのは?」
「幼稚園の時のカール先生だ。だいたいおまえは……」
「何を言うか、おまえこそ……」
『なんとまあ、二人ともいい歳だろうにまるで子供だな……。』
マスターは半ばあきれながら二人の漫才を眺めていた。しかしその反面、なんとなくう
らやましさも感じている。この店を開いてから半年。そこそこの常連も付き始めた。そし
て、彼の一日はずっとこの店の中で過ぎて行く……。
『もし、家内が元気だったら………。もし、麗が普通の女の子だったら………。』
ふと、そんな考えが頭を過ぎった。
が、
『いや……。麗もあいつも、精一杯今を生きている。おれがそんなでどうするんだ。みん
なで一緒にいるために、この店をはじめたんじゃないか。なあ、麗。』
彼は、ふっと息を吐き、そっとカウンターを離れると、後ろの棚からコーヒー豆を取り
出して、ストック用のブレンドを作り始めた。
幾ばくかの時が流れる。
店の中では、お客のいろいろな会話が飛び交うのは当たり前だ。もちろんそれに聞き耳
を立てるのはマナー違反だが、どうしても自然に耳に入ってくるものもある。現に先ほど
までカウンターで繰り広げられていた漫才はいつのまにか終わっており、今度は同じ登場
人物が、先ほどとはまた違った雰囲気を醸し出していた。
「なあ、弦道……。」
「……なんだ、ルドルフ。」
「おまえに頼みがある……。」
「どうした?あらたまって………」
『あれ?さっきまではルディとゲンだったのに、今度は弦道とルドルフか?』
プライベートに立ち入ってはいけないのだが……
「実は、この秋にドイツに行くことになった。」
「……ふむ。」
「シュツットガルドにあるバイオテクノロジー研究所が、このたび新技術の開発に成功し
て、製品化の目処が立ったんだ。内容は言えんがな……。」
「……聞いたところでよくわからん。」
「ふふ、そうだったな。で、うちの会社が扱うことになった。」
「うむ。」
「………このおれに白羽の矢が立った………。たぶん2年は帰ってこれない………。」
「まさか………。」
「ああ、単身赴任だ。」
「2年か……。長いな……。」
ここまで言った弦道は、胸のポケットから煙草を取り出した。箱の中から1本を取り出
して口にくわえる。が、火は点けずにくわえたままだった。
今度はルディが口を開いた。
「おれが日本を離れれば、うちは女性だけだ。なにかあったら、よろしく頼む。」
二人とも別に顔を合わせることもなく、カウンターの前を向いたままだ。マスターはそ
こに、気心の知れたもの同士、いや、それ以上の雰囲気を感じた。
弦道は、ずっと無言のままだ。と、思いきや…。
「とりあえず、おまえの無事は祈っておいてやる…。わたしにできるのはそのぐらいだ。」
「………ああ。」
「しかし、今朝、おまえのところの娘はそんなことなど言ってなかったぞ。」
「うむ。……あの子にはまだ言ってないんだ。かみさんには昨日の夜に話した。」
「そうか……。」
「………ああ。近いうちにおまえのうちにきちんと挨拶に行くつもりだ。ゆいさん達にも
よくお願いしておかないとな……。」
「………まあ、好きにするがいい。」
『単身赴任か……。大変だな…。この人も娘さんがいるみたいだけど……。それにしても、
留守中のことを頼める友人がいるってのはうらやましいことだ。』
などと思いながら、マスターは仕事を続ける。自分もかつてはサラリーマンだっただけ
に、彼の気持ちは何と無く分かるような気がした。そして先ほど弦道に抱いた気持ちとは
また違った意味で、ルディに対し親近感を感じていた。そして、
「すみません。盗み聞きしていたわけではないんですが……。よろしかったら、食べてみ
てください。」
そう言いながら彼が差し出したのは、容器に盛られたアイスクリームがひとつ。
「アイスのまわりはエスプレッソです。男の方でもきっと気に入っていただけると思うん
ですが…。」
盛り付けも本当にシンプルだ。カップの中のエスプレッソの海にちょこんと浮かぶアイ
スクリームの島。ほかに果物が飾ってあるわけでもなく、花火がパチパチいっているわけ
でもない。
「常連さんのお口に合うようでしたら、この夏から正式にメニューに加えようと思ってい
るんです。」
ふと、ルディは視線を上げてマスターの顔を見た。
一見無表情のように見えるが、なんともいえないやさしい瞳。
「わたしも、このあいだまではサラリーマンでしたからね。まあ、わたしからのエールだ
と思っていただければ………。」
さりげなく差し出されたアイスクリームを、ルディはスプーンを手にとって一口食べた。
アイスクリームの甘さに、やさしく絡み付くほろ苦いエスプレッソ。
そのコンビネーションは仕事のために家族と離れ離れになる自分を、きっと支えてくれ
るであろう家族と長年の友人を感じさせてくれた。
「ありがとうマスター。何よりのエールだよ。」
「どうだ。昨今、こんな良い店はないだろう。」
不意に弦道がつぶやいた。
「ああ。たしかにな………。」
笑顔でかえしたルディの表情には、『天使のように聡明なルディ坊や』の面影があった。
ルディがアイスクリームを食べ終えて、きちんと合掌をした時だった。店の奥の方から
トントンと階段を降りてくる小さな足音が聞こえた。振り返ったさきには、第一中学の制
服から私服に着替えた麗がいた。
「そうだ、マスターのところの麗ちゃんにもお願いしておかないとな。うちの娘も第一中
学の1年生なんだ。」
「え?そうなんですか?」
「ああ、おまけにこいつの息子も第一中学の1年生だ。」
「おやおや、こりゃまた……。それじゃあ、わたしたちはいわゆるPTAってやつですな。」
「ふむ。そうなるな……。」
意外なつながりに3人が驚いて(もっとも本当に驚いたのは、マスターだけだったが)
いると、
「おとうさん、おみやげ買ってきたんだけど………。」
恥ずかしそうに麗が言った。
「え?ああ、きょうはバス旅行だったな。楽しかったかい?」
「うん。………はい、これ。いちおー、おかあさんと一緒のものにしたの。」
「かあさんと………?」
「うん。初めてだね、おとうさんとおかあさんにおみやげ買ってきたのって………。」
「麗…………。」
麗が幼かった頃、彼女と一緒に遊んだりしたことなどはなかった。
仕事を優先させ、うちに帰ること、家族と一緒にいることなどはいつも二の次だった。
しかしそれは、家族のためだと信じていたあの頃。
自分が精一杯仕事をすることだけが、家族のためだと疑わなかったあの頃。
しかしある日、自分にとって『家族の肖像』が何もなかったことに気がついた。
初めはそれが、仕方がないことだと思っていた。
「妻も娘も病弱だ」
それが自分の家族だと思い込んでいた。
「だからおれが一生懸命働いて稼がなくちゃ………。」
でも、果たしてそれで良かったのだろうか?
そもそも家族というものは何なのか?
そこで初めて自分のして来たことに疑問がわいた。
「おれの家族の思い出って何だったんだ………?」
考えた末、彼は会社に辞表を出した。
「そうだな。麗からプレゼントをもらうのは初めてだな。」
「ごめんなさい。全然立派なものじゃないんだけど…。」
「いま、開けてみてもいいか?」
「うん。いいよ。」
彼はそっと娘の手から小さな包みを受け取った。お約束のようなデザインの、観光地の
包み紙。丁寧に包装を開けると、中から出て来たのはちいさなキーホルダー。マンガのキ
ャラクターのようなペンギンの人形がついていた。
「へえ…。可愛い人形だなぁ……。」
目の前には持ち上げたキーホルダーの人形がゆれている。
そうしていると、
「それからこのカップ、お店に置いておいてもいいかな?」
「ん?」
麗は恥ずかしそうに新しいマグカップを差し出した。彼女はときどき店で父親の作って
くれるココアを飲むために、自分専用のカップを常駐させていた。
「いままでのカップと換えるのか?」
「うん。これ、きょう友達が選んでくれたの。おとうさんたちのキーホルダーと同じデザ
インだよ。」
見れば先ほどのキーホルダーと同じキャラクターが描いてある。その側にはキャラクタ
ーの名前とおぼしき文字が書き込んであった。
「なになに?……ペンペン?へえ、このペンギンの名前、ペンペンって言うのか…。」
しばらくマスターはそのカップを手にとって眺めていたが、
「ふうん………。そうだ。麗、ココア飲むか?」
「え?いいの?」
普段彼女が店の中で父親の作ったココアを飲むのは、お客がいない時だ。もちろん、他
のお客の邪魔にならないように、というのもあるが、マスター自身も娘との会話を誰にも
気兼ねなくしたかったから、というのがその理由だ。彼女もそれは良く分かっている。な
によりその時間は、かつてほとんどなかった父と娘の貴重なコミュニケーションの時間だ
った。
「もちろんいいとも!こんなかわいいフロイラインとお茶できるなんて、光栄の極みだか
らね!」
その声に麗は思わずカウンターの方を振り向いた。
するとルディがカウンターの椅子を引いて麗を手招きしていた。
「さあ、麗ちゃん。ここに座りなさい。」
麗が父親の方を振り返ると、彼はにっこり笑って肯いた。
すると安心したのか、麗はルディにコクリとお辞儀すると、静かにその横の席に座った。
「マスター、彼女にいつものやつを。」
まるで三文恋愛小説の主人公のように、人差し指を立ててカウンターの中のマスターに
オーダーを出す。これがルディだからまだサマになるが、もし弦道だったら………。
想像するのは止めよう。もっとも、本人もそんなことはしないだろうし…。
ともあれ、麗はこのルディの仕種が妙にツボにはまったらしく、必死に笑いをこらえて
いる。
そのあいだにマスターは、麗のもって帰って来たマグカップを丁寧に洗い、ボールに張
ってあるお湯につけた。次いで戸棚から『レイの分』と書かれたココアの入っていると思
われる容器をとりだした。中身は店で出すものと同じだが、ちゃんと別に用意してあると
ころがミソである。
やがて、ココアが麗の前にだされた。カップからは軟らかな湯気が立ち上っている。
「麗。よかったら友達のことを話してくれないかい。」
マスターが麗に言う。
ところが、やはりカウンターの二人が少々気になったようだ。
「ああ、この人たちはきょうおとうさんと知り合いになったんだ。」
すると、麗はゆっくりと話し出した。
「うん。あのね、きょうバス旅行の出発前にクラスのグループ分けがあったの。」
「他の人は小学校が一緒だったからすぐにグループに分かれだしたんだけど……。」
「そうしたら、一人の男の子と、一緒にいた女の子ががわたしを誘ってくれたの……。」
「それから二人の友達とも一緒になって………。」
一生懸命きょうの出来事を父親に話して聞かせる娘。ルディと弦道は、静かにその様子
を見守っていた。
「ほう……。そうだったのか……。ところで、その友達の名前はなんて言うんだ?」
「えっと、碇君と惣流さん。」
カウンターの二人の男は固まった。
「それじゃあ、麗ちゃんの友達ってのはうちの明日香と……。」
「うちの慎二のことか…。」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「あっという間に2年が過ぎましたねえ………。」
「ああ…。」
「ルディさん、元気にやってますかねえ……?」
「ああ…。たぶん問題ない……。」
「コーヒー、おかわりします?」
「ああ…。頼む。」
子供たちの騒動をよそに、オヤジ達はきょうもいつもと変らない朝を迎えていた。
とぅびぃこんてぃにゅー
エヴァ手話メニューに戻る
感想を
電子郵便で BBSへ