♪だいあり〜おぶざまっどまん〜♪

Mainのページに

’97.10月から’98.2月分’98.3月から8月分’98.9月から12月分

’99.1月から3月分’99.4月から6月分’99.7月から9月分’99.10月から12月分

’00.1月から3月分’00.4月から6月分’00.7月から9月分’00.10月から12月分

’01.1月から3月分’01.4月から6月分’01.7月から9月分


12月12日(水)わし的式日(笑)

世間はいよいよ師走だ。

今年は新世紀突入の年ということと関係があるかどうかはしらんが、振り返ってみるとなかなかに過激な年だったような気がする。

まあ、あと20日あまり残してはいるが、これ以上は勘弁して欲しいものだ。

さて、ふたつばかり訃報があった。

自分の誕生日に訃報というのも変な話だが、亡くなられた二人は昭和という時代の隠れた(いや、別に隠れているわけではないが・・・)証人だ。その時代に生まれたわし等にとっては、やはりこの人たちから少なからず影響を受けている。

まずは声色(こわいろ)芸で有名な、江戸家猫八さん。

寄席の高座での芸もさることながら、わしとしては声色芸のできる役者さんというイメージが大きい。

わし等が子どもの頃にあった、「怪獣ブースカ」の大作少年の父親役だった

まさに江戸っ子の親父で、カミナリを落とすこともあるが、涙もろい人情おやじでもあり、といった印象がある。

しかし、わしが一番好きだったのは、なんといっても『鬼平犯科帳』の「相模の彦十」役だ。

この「彦十」という男は、鬼平こと火付盗賊改方長官長谷川平蔵が「本所の鐵」と呼ばれ、江戸の市井を闊歩していた頃からの付き合いで、昔はワルだった。平蔵が火盗改長官に就任してからは、小房の久米八や大滝の五郎蔵たちとともに火盗改の密偵として活躍する。

その彦十が最近の猫八さんの当たり役だった。本人がどう思っているか知らんけどね。

原作の鬼平犯科帳を多分忠実に再現している「さいとうたかをの鬼平犯科帳(リイドコミック)」にでてくる彦十は、そんな猫八彦十と見事にシンクロしている。

「彦よ。今晩あたり五鉄でいっぺえどうだい?」

「お、ありがてえ!歳い取ると寒さがこたえていけねえや。こんな日は軍鶏なべつつきながら、熱燗できゅ〜っといきやすか?」

鬼平犯科帳も寂しくなるな。


そしてもう一方。

名前は小松崎茂さん。

イラストレーターだ。

この方の名前を知ったのは最近だ。深夜に放送される某番組の中で紹介されたのだが、とにかく凄い。

プラモデルの箱絵や少年誌の表紙などは、ほとんどこの人の手によるものだといってもいい。

わし等の世代で代表的なのは、なんといっても『サンダーバード』シリーズだろう。

イマイのサンダーバードプラモデルは、ほとんどの人が一つは作っていると思う。

わしもサンダーバード2号をはじめ、ジェットモグラタンクなど作ったものだ。

ジェットモグラタンクとサンダーバード2号

この絵を見れば、「ああ、これか・・・」と思われる諸氏も多いだろう。

迫力あるイラストは、当時の子供たちの憧れを忠実に再現している。

いまではCGだのデジタルだのと、技術の革新はめざましいが、アナログの迫力はデジタルとはまた違った趣がある。

この他にも当時のSFイラストは、少年誌の表紙など小松崎氏の手によるものは非常にたくさんあり、もしかするとこのイラストに感銘を受けて技術畑に進んだ人もいるかもしれない。


小松崎氏はかつて戦艦大和やゼロ戦の絵を描いていた。

戦後もパンテルやティーゲル戦車の箱絵を描く一方で、子どもに夢を与えたいと、SFの未来図なども多く描かれたということだ。

そんな小松崎さんの住まい兼アトリエは、ちいさな小部屋。エアコンすら無い。

「少しくらい不便なくらいが丁度いい」が口癖だったそうだ。

猫八さんは被爆者だそうだ。宇品に駐屯してたときに8月6日をむかえ、被爆直後の広島市で救援活動に当たった際、被爆した。

そしてその悲惨さを忘れられず、戦後は人々に笑いを与える職業に専念した。

60歳を過ぎてからは。自らの被爆体験を本にした。

昭和という時代を語る時、彼らは第一線に立つ人ではないかもしれない。

けれど彼らの足跡は、間違いなく昭和とともに80余年の生涯を生き、わしらに大きな財産を与えてくれた。

合掌





11月29日(木)第3の男

「式日」のもたらした効果はなかなか面白いものがある。

それは、わし達特有のものなのだけどな。

東京都写真美術館での上映終了後、「式日」は全国を行脚している(笑)。

そして「巡業先」では、その土地の方々に観ていただいている訳だ(なかにはとんでもない遠くからでも観に行く人もいるけどな)。

で、その巡業先にわし等の昔の仲間がいたりすると、スクリーンの中にわし等の姿を発見したりすることになる。

彼はわし等や庵野と同様に、同じ中学校だったし、いつもつるむ仲間同士だった。

ちなみに彼も入学式の日に、突然庵野たちとわしの家にやってきたメンバーだったりする。

高校は別々になり、わしも中学卒業以来音信不通だったのだが、先日彼から突然メールが来た。

仙台で「式日」を観たということだ。

どうやら式日HPのBBSから当たりをつけてメールを出したらしい。

ま、見る人が見たら、すぐわかるHNだしな(笑)。

ってことで、25年ぶりの再会(ただしメール上)。

それにしても、こういった経験はそうそうあるものじゃない。

「式日」にあらためて感謝といったところだ。

追伸:本当のところは、スクリーンを見ていても、どれが誰やら良く分からんかったそうだ。なんせ当時はみんな丸坊主のくりくり頭。25年の月日はやはり長かった(笑)。






11月25日(日)連休終わり〜

式日の最終日、レイトタイムは満席だったらしい。

どうやらなんとか、地元の面目は保てたというところだ。

つーか、そうじゃなかったら洒落にならんしな。

結局この連休、バスケットシューズを買ってお仕舞い(笑)。





11月23日(金)働くおじさん、ありがとうの日

式日の宇部公開も、いよいよきょうが最終日だ。

まだ観に行っていない人は、すぐさまシネマスクエア7に行くべし!

うちのお袋も昨日観に行ったそうだ。

最終的にどのくらいの観客動員があるのか、少々気がかりだが、一昨日の夜は「メンズデー」ということもあり、満席だったらしい。(といってもシネコンの一番小さい部屋だが・・・。)

さて、久々に投稿ページの更新だ。

先日、ロケ地ツアーの時に参加したさいちんと話していて、仮面ライダーアギトの話になった。

白状すると、わしは日曜の朝は欠かさずアギトを見ている。ま、仮面ライダークウガのとき、途中から見始めてそのまま半分は惰性で見ているのだが、いままでのライダーシリーズとはまた違った趣の作品に仕上がっていて、ちょっと目が離せないでいる。

まず、作品中では、「仮面ライダー」という呼称は一言も出てこない。

ショッカーやデストロンといった『秘密結社』と戦うわけでもない。

なんせ相手はアンノウンだの未確認生命体だの、わけわからん連中だし、主人公のクウガやアギトだって連中と似たようなものだ。

本郷猛や一文字隼人のような、熱血おとこが主人公なわけでもない。

平成版仮面ライダーについては、又の機会に語るが、そんなこんなでさいちんに「アギトを描いてくれい」と頼んだところ、快く引き受けてくれた。今回は「バーニングフォームのアギト」だが、順次ほかのライダーも描いてもらおう。





11月20日(火)さすがに夜更かしは・・・

18日の式日ロケ地巡礼ツアーは最終的に11名の参加者となり、天気にも恵まれ、なんとか無事に終えることができた。

いろんな方が来られたよ。

その中で何人か、印象に残った方がおられるのですこし紹介しよう。


広島から参加、もともとは宇部人らしい。かなりの映画ファンで、いろいろな活動をされているらしい。前日から宇部に入り、カントクと同じホテルに宿泊。
福岡から参加、相当な式日人。すでに8回観たそうだ。公式HPのBBSにもよくお名前を拝見する。
かなりスペシャルな人。宇部熱ではよくお見掛けする。ただし庵野ネタ限定(笑)。


この他にもいろんな方が来てくださった。やはりツアーに参加するくらいだから、それだけの意識を持って式日という作品を受け止めてくれている人たちばかりだ。わしとしては、いままでロケ地に行ってみようなどと思うような映画には、いまだ巡り逢っていないけどな。

巡礼コースは自転車の男と少女が遭遇する宇部中央銀天街のセンター前から始まり、彼女と自転車男が対決する中央大和の側をとおり、国道190号線をわたって彼女が儀式を執り行っていた線路跡へ回る。

そこから国道沿いに西行し、スタッフの宿泊していたビジネスホテルの横から銀天街に入り、あの旧太陽家具廃ビルへと向かった。このビルは現在取り壊しを待っている状態で、中には入れない。入ることができれば、ここが一番のスポットになるのだが、安全面を考えるとかなりヤバイのも確かなので、今回は外から眺めてもらうだけとなった。

その後は銀天街のアーケードを歩きながら、カントクと少女の世界を堪能していただいた。最後に銀天街のご厚意により、思いもかけないオプションが付いたりして、参加者も満足そうだった。

ツアー終了後はSHADO秘密基地内で簡単なオフ会を開き、庵野監督への寄せ書きやメッセージを書いてもらい、散会となった。

残念ながら参加できなかった方もおられたが、今回式日という作品を通じ、これらの方々と縁があったことはわし等にも心に残ったし、また宇部という街の今の姿を見ていただけたことが何物にも代え難い財産となった。



とまあ、ここまではよかったのだけどね、ほら、しし座流星群があったじゃん。

観に行っちまいましてね。夜中から。

ま、月曜日が代休だったってのもあったんだけど、

いや〜すばらしかった〜(感激)

翌日は泥のように眠ったけどね・・・。






11月16日(金)日曜の天気が(以下同文)

いよいよ式日ロケ地巡礼ツアーが2日後に迫ってきた。

一番遠くからの参加は、札幌からだ。

これは凄い。

たかが映画だ。しかし、「されど映画」なのだろうね。

式日のロケは、そのほとんどが宇部市で行われた。基本的には、中央町の銀天街が中心だ。

その他には、庵野の子供の頃からのテリトリーである鵜の島地区、藤山地区といったとこか。

あとはロケーション的に採用された、工業プラントや工事中の高架橋、などなど。

本来ならばこれらすべての所を案内したいところではあるが、いかんせん許可が必要なところや危険なところ、また時間的制約もあったりするので、今回は歩いて回ることのできる範囲で巡礼する予定だ。

まちがいなくコアなファンが来るに違いない。

ちょっとビビり気味(笑)






11月14日(水)日曜の天気が心配だ・・・

まずはじめに、昨日13日の日記を若干加筆修正した。

ここに書いた事は、今回初めて明かしたことだ。

特段隠すようなことでもないのだが、やはりなんとなくおおっぴらには書けないな、ってなふうに自分では思っていたから。

事実この日のDiary of the Madman(’99.10月から12月分参照)は、ただ単に庵野と一緒に出かけたとだけしている。

それを今になって書いたのは、庵野が今生の別れをしたのが11月、今回式日が宇部で上映されるのが11月とまあ、実際には「たまたま」なんだろうけど、そこにある意味運命的なものを感じたからだ。

もともと庵野は自分の作品の中に宇部という街を連想させる、なんらかのオブジェを登場させることが多かった(らしい>わしはエヴァしか知らんからな)。

そして98年の宇部銀天街で行われた「特別展:庵野秀明の世界」連動企画の「うべシネマクラブ協力:ラブ&ポップ上映会」の時の対談で語った「宇部を舞台に映画を撮ってみたい」に繋がってくるのだが、思うに庵野はこのことはもっと昔からの夢だったと思う。

高校生の時に仲間と一緒に制作した「宇部沈没」や「ナカムライダー」という8mm映画がある。

もちろん舞台は宇部市だ。

アニメーターとして世に撃って出た庵野だが、やはり本来の姿、やりたかったことというのはここにあったと思う。

残念ながらわしは、この宇部沈没、ナカムライダーには関わっていない。

しかし関わっていないからこそ、違った立場で友人庵野秀明という男を見つめることもできると思うのだ。もしかすると、それはぜんぜん的外れなことなのかもしれないけれど、そう頭から否定されることでもない。もしかすると、庵野本人も気づいていないかもしれないしな。





11月13日(火)朝が寒いよ〜

10日から式日の公開が無事始まった。

残念ながら10日と11日は仕事が入っていて、映画館には行けなかったのだね。わしの場合。

それで庵野ちゃんと会えたのは、10日の晩遅くにだ。

舞台挨拶の後、市内で地元TV局の取材があり(これは昨日12日の朝早くに放送された)、そのあとは引き続きケーブルテレビのスタジオ録画のため徳山まで移動、収録が終わって宇部に帰ってきたのが夜の10時過ぎという状態だった。

それでも11時半過ぎまでは付き合ってくれて、ほんと、ありがたい限りだ。

やっと宇部市で公開された「式日」。

前回の市民対象試写会はあくまでもエキシビジョンなものだから、この2weeksの上映がホントの意味での宇部公開といえる。

ところでこの「式日」という映画は、わし達にとってはただ単に地元舞台の映画というだけではなく、『20世紀最後の宇部市の映像』として、ある種のターニングポイント的な作品と位置づけられると思う。

そこには「監督・庵野秀明の隠されたメッセージ」がある、とわしは思っている。

式日のパンフレット(原作逃避夢付き)を買われた人は、ちょっと見てもらいたい。

そのなかの庵野の言葉に、「友人と今生の別れをした・・・」

という一節がある。

友人というのは、庵野とは子供の頃からの幼なじみであり、わしとは中学1年生の時から一緒で、中学校の入学式の日に隣のクラスの庵野を連れてわしの家にいきなり遊びに来た男だ。

その今生の別れの場面に、実はわしは立ち会っていた。

病が進行しかなり体力も落ちていた友人を病室に訪ねた時、庵野がやっとの想いで口にしたのは、

「がんばってね・・・。おれもがんばるから・・・」

の一言。

その横でわしは、ふたりにかける言葉が見つからなかった、というより言葉をかけてはいけないような雰囲気だったと言った方が正しい。

1999年の11月13日、庵野が式日の撮影準備の合間をぬって帰ってきた時のことだ。それから一月後の12月20日、友人ハマチャは空へ帰った。

式日の撮影が行われたのは、翌年の4月だ。そして20世紀最後の年である。

庵野が撮影に取り組んでいた時、やつの心の中には必ずハマチャの姿があったはずだ。

1960年、わし達はこの街で生まれ育ち、青春時代をおくった。

この映画で切り取られた『20世紀最後の宇部の姿』には、映像作家庵野秀明の強烈な思念がこめられている。




11月3日(土)文化の日(リリンの生んだ?>前もこのネタやったぞ)

10月の日記はこの下の物だけで終わっちまった(笑)

実はネタ的には結構面白い月だったと思うんだけど、笑えないネタも多かったからな。

ところで、すでにご存知の方もあると思うが、「式日」がついに宇部市内の映画館で公開されることが決まった。

「式日」は、昨年4月に宇部市で全編ロケが行われ、12月から東京都写真美術館でロングラン上映となった。

もともとここの東京都写真美術館での上映するために製作された映画だったのだが、上映終了後もファンの声は留まることを知らず、各地での上映となった。

最近では先日広島で公開されたのだが、肝心の宇部市では昨年8月に市民対象の記念試写会が行われただけだったので、この度の上映決定はひときわ感慨深いものがある。

なにより一番そう思っているのは、監督の庵野秀明本人だろう。

最近はやつも地元によく帰るようになったが、帰ってくるたびに「式日が宇部であるといいな」といっていたことからも伺える。


ところで、今回の宇部上映は、市内のファンが火付け役になって決まった。

この「式日公式HP」「−ayablue−藤谷文子公式webサイト」を手がけたRAPHAのメンバーが中心になって毎日興行と交渉を重ね、ついに正式決定となった。

うちらSHADOとしても、市内の庵野秀明のファンがここまで盛り上げてくれるということは、非常にうれしく思う。

そこでSHADOでも、連動企画として来る11月18日(日)に、『式日ロケ地巡礼ツアー』を執り行なう(笑)。

くわしくはここから。すでに札幌からも参加表明が入っている!




10月10日(水)4周年記念

1997年10月10日に産声を上げた、この創さんのほめぱげも今日で満4歳を迎えた。

ということで、今日はわがHPの誕生日なのだが、実はもう一つ加わることになった。

始まりは1通のメールだ。

それによると、

>インフォシークという検索ソフトで『変質的HP』で検索したところ、3件のうち貴方のHPが引っかかりまして…(実話です)

などと書いてあるではないか。

半信半疑でさっそく「変質的HP」をキーワードにinfoseekで検索を掛けたところ、確かに

変質的HP

の一番始めにこの『創さんのほめぱげ』のコンテンツの一部がひっかかっている!

ちなみにGoogle、Gooでは20位にすら入っていない。

なのになぜinfoseekのみ????

だいたいメールの主はなんでこのキーワードを使ったのだろう??????????

変質的って・・・・・なあ・・・・・

そりゃわしだって聖人君子じゃないぞ。

エッチなネタも嫌いじゃないしな。

ってか、好きだし(笑)。

でもいたってノーマルの範疇だ(断言)!

安全牌といわれたこともあるんだぞ>自慢することか?

ついでに教えてやろう。infoseekで引っかかったのはこのソースだ。

しかし記念すべき4周年。最初のネタがこれかい?!