増吽上人(僧正)
64番蓮台寺旧本殿(現奥の院)に祀られている増吽上人
増吽(ぞううん)上人(僧正)は正平21年(1366)、讃岐与田村に生まれる。
父は、安芸盛正と称し、祖先は7世紀前半の権力者蘇我氏という。土佐に流された一族
の子孫が、安芸姓を名乗り、のち、阿波を経て、讃岐に移ったと云う。
上人は、與田寺で剃髪、青年時代を高野山で修行。後小松天皇の病気に親しく御加持
を命ぜられ、その効験あらたかであったため宮中のご信任も厚かったと云う。
上人は「弘法大師の再来」、「今弘法」と云われ、讃岐では縁側に昼寝をしていた上人
の足裏に「空海」と云うあざがあったと伝えられている。
上人は高野から西、中四国にその足跡を残し、室町時代の仏教衰微を嘆き、荒廃した寺々
の復興に全力を尽くされたようです。例えば、岡山では岡山の安住院、総社の備中国分寺、
児島では64番由加山蓮台寺、65番滝の正蔵院、17番日比の観音院、東児の寺々など
多くの寺院を復興されています。このように児島88ケ所の中にも10ケ所以上増吽上人の
関係された寺院が見られます。
上人は書画はもとより仏画や判木などが残っています。善通寺の国宝になっている弘法大師
の仏画は上人作と云われ、善通寺周辺の弘法大師の仏画もすべて上人作と云われています。
蓮台寺には、上人作の毘沙門天、持国天、不動尊、金伽羅童子、愛染明王、石造弘法大師等の
仏像、仏画が多く残されています。
上人は宝徳元年(1449)、岡山県玉野市山田の9番無動院の前庭に、生まれ故郷の山々
の見える所へ石の棺を埋めさせ、顔の部分だけ穴を開け、ここで死期を予告して念仏の行に
入り、5月5日声も鐘の音も聞こえなくなったと云われています。時に、84歳の高齢でした。
なお、上人の御入定にはこの山田無動院説と讃岐の與田寺説の2説あるようです。いずれに
しても、この両者で法要を行ったことは事実でしょう。讃岐の與田寺が四国88ケ所も含め
全ての四国霊場の総奥の院とされているのもこの増吽上人を考えずしては全く考えられません。
四国88ケ所と児島88ケ所との近さが良くお分かりになると思います。