きれる子供と政治家の関係

ワールドサッカーで全敗最下位の記録を作った日本サッカー界。(古い話ですいません。この間のバレーも残念でしたね。) 実力が無いといえばそれまでだが、実力の差だけではない何かがあると感じた人もいるのではないだろうか。

参議院選挙とそれに続く衆議院選挙。 しがらみ自民党に別れを告げる国民も増えている。だからといって、野党にはまだ政治の経験が少ない。 ここで思い浮かべられるのは、以前一度、自民党政治を覆した細川政権の顛末である。国民の期待に応えて、自民党に代わって政治手腕を振るったまではいいのであるが、自民党のいじめにあって、あっさりやめてしまった。 何が彼をそうさせてしまったのであろうか。

最近子供の事件が世を騒がせている。 高校生売春(援助交際という名でごまかさないでほしい)に、ナイフ事件等。殺人も大人顔負けである。 この現象に関して、「きれる」という言葉がキーワードとしてさかんにあげられている。大きな原因の一つに、社会からのストレスということがあると思うが、それではどうして子供たちは「きれる」という方向に向かうのであろうか。

ここではっきり結論を言ってしまえば、「危機管理能力の欠如」ということである。くだけた言い方をすれば、粘り強さがないということにつながると思う。一見、この危機管理能力という言葉と「粘り強さ」という言葉とは関係ないように感じられるが、実は裏で深く繋がっているというのが私の考えである。

人間は学習能力を持つ動物として、地球上で一番の地位にある。学習能力が人間をここまで発展させたわけである。その学習能力の大きな点の一つに、失敗することによってそれを繰り返さない工夫をするということが挙げられる。「試行錯誤」とも言われることである。 ところが今の教育はおしきせの教育で自分で考える事をさせない。自分の考えている事を主張する方法を教える教育ではないのである。(ある意味では意図的であろうとも疑ってしまうが。) その結果、レールに乗るということが最も優れた方法であるとみんな考えるようになり、誰もそれを疑わないようになる。従って、子供もレールに乗ろうといっしょう懸命になる。それが唯一の将来を約束された道なのである。従って、その目標のためにがまんしてがんばることになる。がまんするということは大事なのだけれど、これは筋書きの通りに行うという目的の為のがまんであって、この筋書きからはずれたらどうするかということは全く考えられていない。 すべては筋書き通りに行くという事を盲目的に信じていると言ったら言い過ぎであろうか。

しかし、世の中は筋書き通りに行くものではない。そこで「きれる」のである。もしくは、「投げ出す」のである。がまんが全然活かされていない。うまくいかなかったときの対応が全くできないのである。これを専門的に「危機管理能力の欠如」と言う。いまの政治体制にはこういった、未知の出来事に対しての対応能力というものが全く無い。いざというときの粘り強さが無いというのもそういうことである。
はっきり言って「危機管理能力」を育てるには、経験しかない。卓上の空論ではだめなのである。自分から失敗するしかないのである。今の日本人はこの経験ができてないと思う。
それではどうすればいいかと言うと、新しい事に挑戦することである。もはや既成概念ではだめなことは世の中が教えている。古臭い言葉だが、「チャレンジ精神」という言葉をもう一度考える時が来ているのではないだろうか。
バブルの時代は終わったのである。しかしながら、いつまでもはじけたままではいられない。なんとかして日本に「元気」を付ける事がこれからの課題だろうと思う。