広島市役所と原爆被害 7
学 童 疎 開 ・ 原 爆 孤 児
隔離病棟の開設
八月九日の連絡会議で、陸軍から、安佐郡可部町付近に赤痢患者が発生、広島市で伝染病院を開設するよう要請があり、保健課が開設準備に着手。福屋ビルを仮病院にあてた。寝台やワラ布団は工兵隊から、薬品や衛生材料は暁部隊から支給を受け、八月一七日から患者を収容した。
舟入病院長天野博士が自宅で焼死したため、吉田市医師会長が診察したが、同医師も原爆症で中途で倒れた。九月一六日、収容所を吉田国民学校に移し、二一年七月、舟入幸町の現在地に応急病舎を建てて復帰した。
見舞金の支給
八月一三日、県援護課から見舞金二〇〇万円が届けられた。県から見舞金として羅災者一人あたり三〇円、市も三〇円支給を決定、一人につき合計六〇円を支給した。その後、県市折半で原爆死没者一人に五〇円の弔慰金を遺族に支給することになり、支給事務を二〇年一二月一〇日まで行った。
戦災孤児は比治山国民学校に
戦災孤児や迷子のために、比治山国民学校を収容所にあて社会課が管理した。ほぼ五〇〜六〇人程度がいつもおり、収容所の公示は新聞やラジオのほか、市役所、県庁、福屋百貨店・広島駅前に名簿を置いて縦覧に供した。収容所は二一年二月一〇日で閉鎖し、引き取り人が現れず最後まで残った一七人は、佐伯郡五日市町に開設した広島戦災孤児収容所に移した。
集団疎開児童八五〇〇人
昭和二〇年春から、市内公私立の国民学校学童三年以上は、できるだけ縁故疎開(約一万五千人実施)を勧め、その他は県と軍の協力で市が集団疎開を行った。
当時の学童三万二千人のうち、集団疎開児童は約八千五百人。各学校単位で佐伯、安佐、山県、高田、双三、世羅、比婆の七郡に疎開していた。
父兄の不明の子どもは三次・三良坂に
広島市が原爆で壊滅すると、学童は保護者や縁故者に引き取られたり教師に引率されて引き揚げてきた。父兄の安否不明の学童は、一応双三郡三次町と三良坂村に収容した。時日の経過に伴い親族や縁故者が出てきて漸減し、最後に残った三〇数人は佐伯郡五日市町の戦災孤児収容所に移した。
飲料水の確保
広島市の飲料水は、職員の努力で六日当時も断水させなかった。その後、職員も増え、船舶部隊の応援もあり配電施設、送水ポンプの応急修理で、八月十日午後から一日五万六千立方bを配水した。しかし、九月十七日夜半からの大風雨(枕崎台風)で水道施設は再び大きな被害を受け、断水が何日か続いた。人員、資材、資金不足のもと、職員は昼夜応急修理に努めた。
当時、排水量の八五%は漏水していたが、職員の昼夜ない活動で封じ、二一年四月はじめ、ついに全市の周辺末端まで水が出始めた。
市議会召集・市長就任
八月九日、山本市会議長が登庁、柴田助役らと市議会召集について相談した。当時、議員定数四八人中、応召その他で八人欠員、実人員は四〇人だったが、長島副議長ほか一〇人が被爆死、生存議員も郡部に避難し、市内には山本議長ほか四人しかいなかった。
早急な市会の召集を決定し、安佐郡原村の放送所に市会議員召集の放送を依頼。八月二〇日、出席者二〇人ばかりで被爆後最初の市議会全員協議会を開会した。
同会議で、新市長に藤田一郎氏を交渉することにしたが不調。その後の風水害などで遅れ、九月二七日、市会で木原七郎氏を正式に市長に議決した。一〇月二二日、市会の推薦により内務大臣が裁定、勅許を仰いで決定。木原氏が戦後初代の市長に就任した。
臨時行政機構の決定
八月中頃、市の職員は八〇人ほど出勤していた。八月二三日、市は臨時行政機構を定め、課長・主任など幹部の移動を行った。
当面必要な最小限度の事務を処理するための簡素化された機構だった。原子爆弾で多大の犠牲者を出した市役所は、一応ここから新発足することになった。