エヴァ手話:学園パラレル編
Wishing well
静止編
ことことことことこと………
第一中学校から歩いて15分ほどのところに、ちょっとした住宅地域がある。といって
も一戸建てではなく、十階建てのマンションが幾つか集まって建っているのだが、そのな
かのある部屋から夕食の準備をしているのか、規則正しいお鍋の煮える音がしている。今
日の献立は焼き魚に野菜のお浸し。あとはオーソドックスにお味噌汁といったところか。
包丁を置いてコンロにかけてある鍋の様子を見ようとしたときに、玄関のドアが開いて
このうちの家族のひとりが帰ってきた。
「ただいま〜。」
台所から出迎えに出たのは、
「帰ってきたのか、慎二。」
碇弦道42歳、慎二の父親である。180センチを優に超える長身にあごひげの顔。職
業は小説家だ。歴史小説を得意としている。ちなみに弦道というのは本名だ。ペンネーム
は『六分儀厳堂』を名乗っていて、業界ではその斬新な歴史解釈が密かな人気を博してい
る。なかにはあまりに意外なその解釈に眉をひそめる連中もいるが、弦道はそんなことは
おかまいなく、今はライフワークの『真日本史補完計画』を鋭意執筆中だ。もっともいま
はひよこのエプロンをかけ、手にはおたまと小皿が握られていた。
「うん。あ、そうか。きょうは母さん遅くなるんだっけ?」
「ふむ。ゆいの学校は明日入学式だからな、その準備だ。したがってお隣もそうだ。」
「じゃあ晩御飯は?」
「問題ない。明日香ちゃんの分も用意している。あとで呼んでこい。」
「オッケー。じゃあ部屋にいるよ。」
「ああ。」
そして慎二は自分の部屋に、弦道はキッチンへと戻っていった。
慎二の母親、碇ゆい(38歳)は教員だ。隣の家の明日香の母親、惣流今日子ととも
に第3新東京市立第一小学校に勤めている。二人は大学の教育学部時代からの親友だ。
一方、明日香の父親、惣流ルドルフ・ラングレーは外資系の商社に勤務しており、現在
はドイツに駐在している。したがって明日香は母親と二人暮らしの状態で、慎二の母親が
仕事で帰りが遅くなるときは、必然的に今日子の帰りも遅くなるので、そんなときには明
日香は碇家で夕食を食べることになっていた。
どさっ…
慎二は自分の部屋に入ると、そのままベッドにダイブし、ごろんと仰向けになると、
両手を頭のうしろで組んで、天井を見つめた。
きょうは、なんだかいろんなことがあったな…
明日香の手前、『ふたりで一緒に謝ろう』なんていっちゃったけど、
……謝ることは前もって紙に書いておいた方がいいのかな?
……それとも、その場で書いた方がいいのかな?
そうだ、手話とかも覚えなくちゃいけないのかな?
明日香か………
明日香のやつ、いま何考えているんだろう……
今朝、校門のところで見た明日香って………
なんだかいままでの明日香と雰囲気が違ったナ……
むにゃ………
zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
………んじ、………しんじ……慎二
「ばか慎二!」
「んあ?!」
「目、覚ませなさい!!」
そこに立っていたのは、金色の髪の毛を腰まで伸ばし、腕組みをした少女がひとり。
「ふあ……、おはよう明日香……今朝は早いね…」
「あんたばかぁ?まだ夕方じゃない!」
「………へ?」
寝ぼけまなこでベッドの脇の目覚し時計を確認すると、確かに針は6時30分を指して
いる。朝の7時より早く起きたことの無い慎二には、間違いなく夕方だと分かった。
「…………あ、あのまま寝ちゃったんだ…。あれ?なんで明日香がいるの?」
「何言ってんの。あんたが眠りこけていたから、おじさまがわざわざ呼びに来てくださっ
たのよ。もうテーブルについて待っていらっしゃるから、あんたもさっさと来なさいよ
ね。」
くるりと身を翻した明日香は、そのまま足取りも軽く慎二の部屋を後にした。
慎二はしばらくベッドの上でぼぅ…としていたが、不意にぱんっと両手で頬を軽く叩く
と、
「よかった……。いつもの明日香だ。」
そっとつぶやいてベッドを降りた。
「おじさま、ごちそうさまでした。とってもおいしかったです。」
食事を終えた明日香は、箸をきちんと自分の前において合掌した後、にっこり微笑んで
弦道に礼を言う。実際、弦道の料理はうまいのだ。
「ふむ。味はおかしくなかったかね?」
などと言ってはいるが、下手な主婦よりは、はるかに料理が上手い。実は、もの書きの
弦道は、執筆中に構想が煮詰まってくると、気分転換に料理をすることにしている。初め
のうちは真似事のようなものだったのが、次第に本格的なものに挑戦するようになり、い
までは妻のゆいにも一目置かれるくらいの腕前になった。したがってゆいが仕事で遅くな
っても夕食については何も心配はなかったし、明日香の母親の今日子にしても、安心して
娘のことを碇家に頼めるのだった。
「うらやましいな…。おじさまは男なのに、こんなに料理が上手なんだもの。」
それは14歳の女の子の正直な気持ち。
「なに、明日香ちゃんもそのうち上手くなる。心配することはない。」
「そうだと良いんですけど…。うちのママ、このあいだはひどかったんですよ。ソースと
醤油を間違えて…。」
「それは災難だったな…。」
一方、慎二はそんな料理のことなんかどこ吹く風で(とりあえず美味いものが腹一杯食
えたらええねん by統治)のんきにお茶など飲んでいた。
そんな状態がしばらく続いたのだが、
「おじさま、ちょっとお手洗い借りますね。」
「ふむ。」
と明日香が席を立ったとき、慎二が思い出したように、
「あ、そうだ。父さん、明日香を呼びに行ったんだって?ごめんなさい、あのまま寝ちゃ
ったからさ。」
ところが、
「わたしは呼びになぞ行っとらん。」
慎二は湯飲みをいったん口にしかけたが、その状態のまま動きが止まった。
「え?」
「それ本当?」
「嘘をついても仕方が無い。おまえが自分の部屋へ入ってしばらくした頃、明日香ちゃん
が自分でやって来たのだ。」
「…………………………」
「どうかしたのか?」
「……………いや、…………なんでもないよ……。」
息子の表情が幾分硬くなったのを弦道は一瞬いぶかしんだが、そのまま立ち上がるとテ
ーブルの食器を片づけ始めた。
かちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃ
じゃ〜…かちゃかちゃかちゃ…じゃ〜
弦道が洗い物をする後ろでは、慎二が先ほどからずっと考え込んでいた。さっきの明日
香は、慎二が見た限りいつもどおりの明日香だった。慎二が呼びに行かずとも、明日香が
このうちに来ることは別に不思議なことではない。おそらく今朝、自分の母親からも帰り
が遅くなることは聞いているはずだからだ。
『なんで父さんが呼びにきたなんて言ったんだろ?』
「慎二、おい慎二。」
「あ、なに?」
「…お茶を飲まないのなら、さっさと湯飲みをよこせ。洗い物が片付かん。」
「ご、ごめん。」
思考を弦道によって遮られた慎二は、あわてて流し台の弦道に持っていた湯飲みをわた
しに行った。そして再びテーブルにつこうとした時、お手洗いから戻って来た明日香と目
が合った。まさに明日香のことを考えていた最中だっただけにちょっとうろたえてしまっ
た。
「あああ、あのさ明日香…」
「…なによ、どうしたの?」
慌てて声をかけたおかげで、声の裏返ってしまった慎二に対して、明日香の方は落ち着
いたものだ。そこに、
「慎二、なにをしている。女の子を誘うのならもっと堂々とやれ。(ニヤリ)」
状況を知らない弦道が、つい、いつものようにヤジを飛ばす。
普通ならここで慎二が言い返し、明日香が真っ赤になって否定して、二人が墓穴を掘っ
たところに弦道がさらに追い討ちをかける、というシーンが展開する場面だ。少なくとも
弦道の頭の中には、そういうシチュエーションが繰り広げられていた。
しかし今日に限っては、それが慎二にとって逆に作用した。
「父さん、そんなんじゃないんだ。明日香、ちょっとぼくの部屋まで来てくれないか?」
やけに静かに、またいつに無く落ち着いた声であったために、弦道は完全に気を削がれ
てしまった。ちょっと茶化せるような雰囲気ではない。その雰囲気は、明日香にものしか
かってきた。
「…………………」
明日香も思わず息を呑む。
すると慎二は雰囲気を察したのか、こんどは努めて明るく明日香には返した。
「もうすぐ、母さん達も帰ってくるよ。それまでの間でいいからさ。」
弦道の事は知った事ではない。
「…………ん、わかった……。」
じきに母親が帰ってくるという慎二の言葉に、明日香も幾分落ち着いたのか、素直に慎
二に従った。
慎二の部屋に二人が行った後は、いきなりシナリオを覆された弦道が、ぽかんとした顔
で立ち尽くしていた。
後日、弦道は喫茶Fly me to the Moonで『山本勘介の気持ちがよく分かった』
と語ったという。
マンションの中だから、ダイニングから慎二の部屋まで、別に長い廊下があるわけでは
ない。慎二は何も言わず明日香の前を歩いていく。
かちゃ…
「入りなよ。」
「…うん。」
慎二はまず明日香を部屋の中に入れると、続いて自分も部屋の中に入った。そのまま自
分の机まで行くと椅子をだし、入り口のところで立ったままの明日香に向かって、
「とりあえず座ったら?」
明日香は無言で小さく頷くと、椅子のところまでやってきた。
そして慎二は明日香が椅子に座ったのを見届けると、自分はベッドに腰をかけ、そのま
ま胡座をかいた。なにげなく明日香の方に目をやると、彼女は両足をきちんと揃え、スカ
ートの端っこを両膝の上できゅっと握っている。
どきん!
瞬間、自分の心臓の鼓動が跳ね上がったのを慎二は感じた。
『なんなんだ?!今の………』
明日香がこの部屋の中に入るのは、幼稚園、小学校時代から数えれば何百回となるかわ
からない。小さい頃のままごと遊びに始まって、小学生の頃はTVゲーム。寝坊介の慎二
を毎朝叩き起こしにやってくるのは、その頃から彼女の日課だ。学校でも当然のことなが
ら、毎日顔を突き合わせている。
『明日香………だよな……?』
「なによ、あたしの顔になにかついてる?」
明日香の声に慎二は我に返った。
少し前、ここは第一中学。
もはやクラブ活動も終わったところも多く、生徒達も次々に家路へとついている。そん
な中、職員室では部活を終えた顧問の教師達がひとり、またひとりと入って来た。彼はそ
んな教師のうちの一人だ。
「なんだ?葛城、まだ残ってたのか?」
無精ひげに後ろで束ねた髪の毛。教師というには少々野暮ったい身なりだが、それでも
間違いなく加持亮二はこの学校の社会科教師であり、男子バスケット部の顧問だった。
「え?ああ、加地君か…。」
美里はおざなりの返事をすると、ふたたび机の上で仕事を再開した。教師といっても教
室で教鞭を執るばかりが仕事ではない。授業の合間には、デスクワークをこなさなければ
ならない。そしてそれは、彼女のもっとも苦手とする分野だった。
「その書類、提出期限は今日までじゃなかったかな?」
にやにや笑いながら、加持は美里のそばの椅子を引き寄せて反対むきに腰をかける。そ
のまま背もたれの部分に腕を乗せて顎を持たれかけるのは、彼のいつものポーズだ。
「うっさいわね!人の邪魔してないでとっとと帰りなさいよ!!」
机の上の書類からは目も離さずに美里が言い放つ。このくらいの反応は加持にとっては
充分予測の範囲内だ。
「まあ、そうカッカしなさんな。ところで、おまえのクラスの例の転校生のことだが
な。」
すると今度は美里は机から顔を上げて、加持の方を向き直った。
「……難波浩一郎君のこと?」
「そうだ。あしたから授業も始まるし、おまえのクラスの社会科は俺の担当だからな。ど
うなんだ?彼の様子は?」
「………きょうみんなの前で彼を紹介したの。それで自己紹介をしてもらおうと思ったん
だけど、黒板に自分の名前を書いただけ。」
「たしか彼は、生まれつき耳が不自由ってわけじゃないんだろ?」
「そう。このあいだの会議で説明があったとおりよ。」
「ふむ。おまえは彼と何か話したのか?」
美里は、ふぅ…とため息を吐くと、ボールペンをもてあそぶ。
「それがねぇ…。ぜんぜん声を出してくれないのよ。こっちは筆談しか出来ないから仕方
ないとしてもさぁ……。」
「……喋れないってわけじゃないんだろ?」
「うん。耳が不自由になるまでは、なにも問題はなかったんだもん。」
「……………まあ、環境が変わったわけだからな。緊張もするさ。」
「そうね…。はやくこの学校に慣れてくれるといいんだけど…。」
「………いちばんむずかしい年頃だからな…。」
加持の呟きに、美里はただ肯くだけだった。
次回、『始動編』