広島市役所と原爆被害 その三
●市庁舎からの避難
市庁舎は午前一〇時過ぎ頃、周囲の火災によって類焼し、午後三時頃まで燃え続けた。まず、一階南西角の会計課と南側二階の電話室から出火。中村秘書は、隣室の市長公室に負傷した職員三、四人を収容していたが、電話室から火の手が回ってきたので、収容者を一時的に玄関まで大急ぎで引きずり出した。
周辺のバラックが炎上した火の粉が南風に煽られ、庁舎に飛んできて、庁舎三階が燃え上がったのは一一時過ぎであった。三階の火は廊下に積んであった書類に引火し、階段の木製の手摺りを伝って二階まで下ってきたという。 さらに外部から火の粉が、地下の施設課の油類に引火して爆発、同じく地下にあった電気室が爆発するなどして、一階・二階に引火した。その上、大手町国民学校の大講堂が炎上した熱風が正面玄関側を巻き込み、庁内の火勢をいっそうあおり立てた。
炸裂直後、一階の廊下や地下室には、市の職員や男女の見分けもつかぬ重傷の避難民がたくさん逃げ込んできた。すでに死んでいる者もあり、足の踏み場もないほどであったが、火災となったとき、歩ける者だけは、ようやく隣の公会堂跡に脱出していった。
●三室を火災から守り抜く
市庁舎東南隅一階の二室(保険課・援護課)、および地下の三室(防衛課・防衛部長室・ボイラー室)を残し、午後三時頃までに、焼けるものは残らず焼き尽くして自然鎮火した。焼けなかった各室は、野田防衛課長ほか七、八人の職員の果敢な活動による成果だった。
このため、若干でも机、椅子、書棚など、備品類や書類用紙が残り、被爆直後の応急事務処理に非常に役立った。
特に「広島市防衛課長」の公印、一台の謄写版、裏紙の使用できる書類などは、七日からただちに羅災証明書の謄写印刷や交付に活用された。
●救護班の要請
野田防衛課長は、午後三時過ぎ、駆けつけてきた学務課の滝谷書記に、中国軍管区司令部軍医部に、至急、市中心部へ軍医部救護班を出動されたいと要請するよう派遣したが、司令部も全滅状態だった。宇品方面は無事らしく思え、宇品警察署から郡部方面へ至急医療救護班の派遣方を依頼することを決心し、防衛課にあった自転車で、宇品署へ野田防衛課長が向かった。
宇品署は、全員、専売局の東南角のガソリンスタンドの所に出張して、避難者の誘導や乾パンの配給をしていた。そこで森下助役と中原考査役 が南出張所(皆実町)にいると教えられ、すぐに南出張所に行った。午後四時であった。
●防空本部の設置
野田課長は、幹部職員がすべて行方不明なので、至急本庁に帰り「市防空本部」の開設をと進言、防空本部室その他二部屋が類焼を免れていることを併せて報告した。自転車を持っていた考査役と野田課長が本庁にすぐに帰り助役は徒歩で後から登庁した。
森下助役は千田町の下宿二階で被爆し、数時間の失神後、浴衣の寝巻姿のまま脱出、南出張所へ避難。中原考査役は、建物疎開作業実施で仁保町の町内会長宅に行っていて被爆後南出張所に来ていた。
粟屋市長も柴田助役も消息不明のため、平井総務部長、野田防衛課長、徳永会計課長など六名で相談し、市の防空本部を、焼け残った千田町の職業紹介所内に設置することにした。
本部は午後遅く庁舎前庭に移って活動を続けた。六日当日は勿論、七日になっても地下室では紙の倉庫や配給課の物資の倉庫などがくすぶり、庁舎内は火災の余熱で入ることができなかったからである。
●乾パンの配給
仁保町の自宅で被爆した浜井配給課長は、歩いてただちに家を出たが市役所に近づけなかった。防空計画で空襲を受けた場合の配給用に、宇品の機甲訓練所のトラックを動員すると打ち合わせてあったので、宇品に直行した。
訓練所も破壊されていたが、数人残っていた職員に強硬に申し入れてトラック一台を借り上げ、府中の食糧営団の倉庫に行った。倉庫には呉市から応援トラックが来ていたので、二台に菰に詰めた乾パンを満載し、夕方近く、広島赤十字病院の前に降ろし、すぐに乗ってきた数人の市職員と共に、手車その他で羅災者に配給する措置をとった。
それから浜井課長は、余塵くすぶる本庁の配給課に行った。真っ白い灰が約三〇センチメートルくらいの高さにつもり、女性らしい骸骨二体が転がっていた。