江戸時代後期は、三篠川沿いや加茂郡など20カ村からの物資の集積場として繁栄した町で御本陣も据えられていた。
また、大正2年には、広島銀行の前身である芸備銀行の支店も出店されたほど賑わいのある地域であった。
史跡には、広島市の文化財指定になっている西八幡神社や御本陣など多くの史跡が残っている。
また、広島城築城の時の道でもある古道の中郡道は、ほぼ完全に残っており、まさに中世を感じさせられる歴史の町でもある。
狩留家という地名の発祥は、広島県市町村合併史によれば「狩留家は昔、皇室の領地で稲置狩倉がもうけられたことによる」とある。
稲置とは郷程度の皇室領を管理する職名で、狩倉は、御領家の荘園領主が、鹿皮やホジン(干し肉)などの安定確保のために設けられた狩場のこと。
狩倉には平素農民などが立ち入ることは一切禁じられており、常に獣が生息しやすい環境が保たれていた。
この狩倉には獲物を調理する「庫裡」ヶ設けられており、宿泊施設もあった。
このことから「もののふ」が、「狩」をして「留」まる「家」すなわち「狩留家」となったのが地名の由来とされている。
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